新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」

新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」-1

 

「発刊によせて」 昭和52年7月31日 委員長 八木栄一

西郷南州先生の百年祭にあたり私達の郷土(新城)は先生と決して無縁ではなかったと思います。明治10年の西南戦争には新城隊(200余名)が編成され西郷軍として出陣、うち24名の若者が尊い人命を捧たと伝えられています。特に西郷南州先生は明治10年2月の出陣直前まで、新城の山野で幾度となく狩りなどをなされその折々の秘話などが数多く語り伝えられて今更ながら西郷南州と新城は大きな因縁で結ばれていたと考えられます。

明治維新の大業を果たされた偉大なる人西郷南州先生の没後100年の記念すべき年を迎え、長い歴史の中で、この様な機会に巡り合わせた新城の私たちは先生の偉業と先生と生死をともにされた郷土勇士の先輩方のご冥福を祈り御恩報謝の誠をささげるべきではないのか、小さいながらでもよい、新城なりの記念事業を実現してほしいと提言してくださった人たちも沢山ありました。この様な事情など配慮しまして「西郷100年祭新城記念事業実行委員会」を組織してその一つとして「西郷どんと新城」と云う名題の記念誌を刊行する事になりました。

幸いな事に私達新城には郷土史家の永田時吉氏が健在で熱心に郷土史の研究を続けられているのでお願いする事となった。

狩場としての新城

新城は高隈連邦を背景として南面季候温暖、村の八割余が山野であるが山野には古来樫、椎、栗、ほさ、まて等の大木が繁茂してたくさんの木実がなった。これらの木実は猪の好物であるが栄養価の点でも貴重な澱粉、蛋白,脂肪、ビタミンなどを豊富に含有し秋の末落果して春の芽を出すまでは自然保存食として猪にとっては誠にありがたい自然の恵みである。新城の山々谷々にはどこでも山芋が自生してよく育って大変良質な物が生産される。山芋はまた猪の大好物で猪はあの鋭い鼻はしでよく芋掘りを行う。猪の鼻はその為長い年月の間に成長発達したものとおもわれる。新城に猪が多かったのは、猪の好物の木実や山芋が豊富であったからであった。明治の末期から林野改善事業が進むにつれ、樹木も松、杉,ヒノキが中心となり樫、椎、マテバシィ、栗などの雑木林は切り払われ猪の食糧は低調となるにつれ新城の猪の数も漸減の一途を辿り今日は極めて少数が残存するありさまである。猪の肉が万獣の肉中最高味をもつといわれるわけは栄養価の高い木実と山芋を食糧とするためと言われる。特に「霜月、師走、正月の猪の味は最高で郷里では猪肉を正月料理に使用する習慣がある。正月料理の猪は肉の毛を残したものを御吸い物に入れるならわしがあるがこれは私どもの遠い祖先が原始時代の食物の名残を留めたものと言われる。したがって村の猪は原始時代からいたわけで原始時代人にとっては極めて貴重な食料であった。南州翁は初めて新城の明ケ谷で猪狩りをされたがその時10頭ぐらいの猪の集団に出会われ、聞きしに勝る新城の猪の多い事に驚かれ猪狩りをするなら新城の山だと称賛されていたという。明ケ谷一帯は近年まで椎の大木やほさまての自然大木林で木実が多かった。

藩政時代まさかり根木原一帯は新城家の狩場として一般の山入りは禁止されていた。この禁猟地区には兎や鳥類が多かった。又柊野、北野、桜町、高牧、郷之原一帯周囲20キロの広域に新城家経営の高牧牧場があって、常時数百頭の馬が放牧され一般の出入りは禁止されていたので牧場内は兎や鳥類の天国で繁殖旺盛成育極めて良好なものであった。

明治2年新城島津家は私領奉還され牧場も廃止、同時にまさかりの禁猟区も開放された。以来この辺は狩り場として狩人の楽天地となった。南州翁もこの辺での狩りをおおいに楽しまれたが兎や鳥類特にキジの多い事にも驚いておられたという。そのよき狩り場も明治5年土地制度改正によって私有化せれて、後は年々鳥獣漸減の法則を辿った。南州翁は大きな体で新城の山野をくまなく駆け巡り狩猟を楽しまれたが山野での行動力は驚く程元気で敏捷であった。それは狩りを楽しむと同時に恒に心身を鍛練していつでも陸軍大将として行動力を養う深い意味があった。で云うトレーニングであったと考えられる。新城の山野は至るところ南州翁狩猟の足跡がのこり村人は今でも西郷どんの敬称で尊敬申し上げている。

 

 

 

南州翁を偲びて  上田武博

上田武博は明治45年5月5日、上田寿助の長男として生まれる。母はミネ、祖父は親豊、祖母はマスと言う。祖母マスは鹿児島市呉服町岩元善次郎の2女で嘉永5年3月10日生まれで祖母の長兄は岩元市之助と言う。武博は昭和2年垂水高等科3年生、数え年17歳の夏休みの時西郷南州翁が我が家を狩宿として度々お泊りになった事につき祖母マス、当時77歳によく事情をきいて詳細に記録して大事に保管していたが昭和20年8月5日米空軍の直撃弾を受け我が家は全焼してしまった。その内容の大意は次のようなものであった。西郷家と岩元家は古い付き合いで兄市之助は南州翁に従い戊辰戦争に出兵、常備隊平士、私学校平士となって南州翁を心から尊敬していた。明治6年末征韓論に敗れた南州翁は下野、鹿児島に帰り、心身を鍛練する事も考えひまさえあれば県下各地で狩りを楽しまれた。市之助は翁の希望で狩りの伴人を務めた。同7年市之助は南州翁を案内して新城で狩りをする事として妹マスの家を訪れた。この事はすぐ新城内に伝わり前戸長中村清徳、現戸長安田為僖など有志の面々は直ちに南州翁に敬意を表しご機嫌伺われた。翁は感謝の意を表し狩りにきたので万々よろしく頼むと挨拶された。上田家では日本一偉人来客を喜び一家一族挙げて歓迎申し上げた。この事が南州翁が初めて新城においでになり上田家を狩宿とされた起源で明治7年立春のころであった。この時翁は絣の木綿着に脇差をさし、猟犬を数匹連れて従者と市之助がお供してきた。マスは幼き頃から翁を知っていたが親豊は初めてで夫婦は揃って維新の偉業、王政復興の実現、版籍奉還、廃藩置県等一連の翁の偉大なる功績に敬意を表し、田舎でつまらない所で恐縮至極に存じ上げるがゆっくり新城の狩りを楽しんでいただきたいと心から挨拶をした。翁は「いやいや維新の手柄はわしがしたのではない、日本国民の希望で国民があげた手柄で新城の人びともよく協力して下さった。市之助どんが新城は猪が多いから狩にいこうと誘い妹マスもいるとの事でやってきもした。万事よろしくたのみもす。皆元気で何よりごあす。私どもの食事など家族同然として扱ってくだされ」と申された。翁は身体が大きく目玉が光堂々たる偉人であるが平民的で少しも威張らずあっさりされた人柄に親豊は感心した。翁が新城で狩りをされるとの事で元戸長中村清徳は新城の狩りの名人鹿屋駒之助、兎捕りの名人中村休次郎、鉄砲撃ちの名人榎屋与助の3人を選び御伴役勢子に推せんされいよいよ第1回目の猪狩りが明ケ谷で始まった。一行が明ケ谷に入ると10頭ぐらいの猪の集団に出会った。翁は一番大きな猪を狙い撃ち弾丸見事に命中した。同時に駒之助の撃った弾も命中した。撃たれた猪はその日のうちに捜し大きな成果を上げた。翁の撃った猪は10貫目、駒之助は8貫目位のもので翁は一頭を勢子一同に分け一頭を持参して上田家一族及び中村清徳等有志に贈られた。初回の猪狩りに凱歌をあげた翁は聞きしにまさる新城の狩りに大きな興味をもち、以後度々訪れ新城と鹿児島の往復は新城の仕立て舟を使用される事が多く、仕立て舟は四挺櫓で新城の若者が従事した。翁は従業員には普通の賃金より5割高を払われ従業員はおおいに喜んだ。翁が鹿児島からおいでの時は必ずおいしい土産をもって「親豊どんマスどんまたきもした」とあっさりしたあいさつをされた。明治7年の秋の末、旧暦9月15日前後は好天が続いたので親豊は翁を烏賊引きにお誘いした。翁が小舟に乗ると舟が深く沈んだので翁は「おいどんが乗ると舟も難儀しもんど、しづましもはんか」と大笑いされた。この晩は2時間ぐらいで数匹の烏賊を上げられ、たので大変ご機嫌であった。親豊は8匹引き揚げたので海では親豊どんにはかねもはんと親豊の烏賊引きの名人ぶりを称賛された。翁は新城の山で狩り、海で烏賊引きこれ天下一品なりと申され折々烏賊引きにも出掛けられた。南州翁は狩中従者と同じ生活であった。起居は親豊方の表の間で早寝早起の習わしで朝茶を好んだ親豊は鹿屋郷之原産の良茶を備えて差し上げた。食事は家族同様のものでよいとされたが味噌汁がすきで鯛のひぼかしのダシで手作りの味噌に青物を入れると美味いと喜ばれた飯は米に甘藷を入れたものを好まれた。時折そばを作ってあげると大変喜ばれた。狩には昼飯としてにぎりが普通であった。マスは木場の田の米が良質であると知り木場米を備えて飯を作りにぎりは3個ずつ梅干しを入れて差し上げたが翁はマスどんの握り飯はうんまかとご機嫌だった。翁は又野菜類の煮しめがお好きであった。サトイモ、大根、ニンジン昆布、揚げト―フ、こんにゃく類を鯛のひぼかしで煮つけて差し上げると大変喜ばれた。翁が愛用された火鉢、お膳、飯椀、お皿類は上田家の家宝として大事に保存されていたが米軍機の直撃弾で焼失)した。翁はお風呂も大好きで毎晩わかしてあげた。風呂も米軍の弾で焼失した。翁が狩においでになると大小何かの獲物を捕って御帰りになったが捕れた獲物は大かた村人に恵まれた。たまに鹿児島に良き便がある時は実家や知人に送られた。翁の滞在中、新城垂水の旦那方がご機嫌伺いにおいでになった。中には翁に揮毫を望まれて時折書いて下さった。上田家には二幅記念に賜わったので親豊は鹿児島で表装し家宝として大事に保存された。このうち一幅は「幾度幸酸志始堅丈夫玉砕甎一家遺事人知否不為児孫買美田」と書いてあった。親豊は床の間に掛朝夕吟じて翁の人格を慕いご冥福を祈り毎月24日は祭典を行いありし日の翁の面影を偲ばれた。この書も家宝として大事にされたが行方不明となった。明治10年2月4日夕刻翁は突然立ち寄られ「今日は急いで鹿児島に帰る。当分会えないと思う、元気で暮らしてくれと茶も飲まずに立たれたので親豊、マスは翁の姿が見えなくなるまで見送られた。これが翁との今生の別れとなった。

 

 

南州翁を偲んで     大津シモ

大津シモは慶応2年8月10日上田親豊の次女として生まれ成人して大津吉次の妻となる。幼女の頃実家上田親豊の家に西郷南州翁が度々狩りに来て御泊りになったので南州翁をよく覚えて居ると次のように話された。私は10歳前後で世の中の事は何にもわからない頃であった。西郷様は犬を数匹連れて絣の着物に兵児帯を締めて体と目ん玉が人より特に御大きく堂々たる体格のお方であった。母が鹿児島の岩元家からきていたので伯父の岩元市之助がいつもお供してきた。鹿児島からお出での折は何時も珍しい物をお土産に持ってきてくださりそれが何より楽しみであった。ある日私に何が一番好物かとお聞きになり私は三角菓子だとご返事申し上げたら直ぐ買って下さった。その頃村では三角菓子が最上のお菓子であった。又翁は近所近辺の子供達にも折々三角菓子を与え、お利口な子供には又やるよと申しておられた。父親豊、母マスは南州翁がきてお泊まり遊ばす事を大変喜んで何よりに名誉と考え、とても大事なお役様で日本一の偉人だから朝晩身だしなみをしてご挨拶申し上げよ、家の内外等常に綺麗にせよともうしていた。母はざっくばらんに「西郷さん、今日はないが良かな」と尋ね賄いに誠意をささげていた。翁は米に芋を交混ぜたご飯がお好きで又おそばが好物であった。父は農漁業を営んでいたので自家用米は生産していたが村で一番良質米は木場田のものであるというて木場米をかっておいた。芋は小谷の仕明地焼畑芋がおいしいとの事でそれを買い入れて差し上げていたので新城の飯はうまかと申され、又父はおいしいそばを作るため山いも掘りを連れて良質の山いもを掘り、そばも焼畑づくりのそばを作り鯛のひぼかしのダシで作ったかけ汁にゴマや山椒の実小ミカンの皮を交ぜた幸香とせんもとのきざみをひねものとして差し上げると「とてもおいしかもいっぺどま気張っ食おかい」と申され数杯召しあがり「新城にくるのが楽しみごあんさ」とごきげんのようであった。私は村でも世の中でも戸長様が一番偉い人だと思っていたところ翁の滞在中新城戸長安田為僖、元戸長中村清徳その他麓の旦那方垂水の戸長町田案山子外旦那方いっぱいかわるがわるおいでになって翁に鄭重なご機嫌伺いをされるので翁はとても偉い人だと子供心に感じていた。翁は又朝晩お茶飲みが好きで父は鹿屋郷之原から良茶を買い入れていた。私は折々ご飯やお茶の給仕も務めたが田舎娘が世界の偉人の給仕が出来た事を今でも大変光栄に感じている。お客様の中には翁に揮毫を求められる方もあって、時折翁は大きな筆で四尺ぐらいの紙に清書されていた。私の実家も二幅の掛け軸を書いていただき父は家宝として大事にしていたが戦後行方不明になり残念に思う。又翁がお泊りの時お使いになった茶碗飯椀、お膳、お箸などゆかりの道具も父は大事にしていたが実家が昭和20年8月5日の米軍の直撃弾を受け、全焼した。ある日翁は私に今後の日本は教育が重視されてすべての女子が学校に行く事になる。それで読書算をお父様に習えと申された。その頃女子に教育は無用の長物とされていたが段々翁の申されたとうりになってきた。私の父母は南州翁を神様同様に考えて西南戦争には一族郎党老いも若きも新城隊兵士として西郷軍に付き奮戦された。戦い敗れて南州翁が城山で戦死されたときは数日ろくろく飯も食べずに泣いて供養を務め、父母生存中は毎年9月24日の忌日には祭壇を設け供養の法事を捧げ翁のご冥福をお祈り申し上げ御遺徳を偲んだ。私も又父母の意を体し供養を続け供養を続け毎日南州翁の遺徳を偲んでいるが幼き頃のお姿が目前に浮かんで涙が湧き出る。翁は日常私をシモチャンとよんでおられ終始愛情を注いで下さった。明治10年2月4日南州翁は根占から鹿児島へお帰りの途中ちょっと立ち寄られた。それが私共と今生の別れとなった。当時のお姿が今も目にかかっておる。それから間もなく陣触れが出た事も少し覚えている。

 

 

南州翁を偲びて    高千穂  細竜 豊(明治33年生まれ)

私の家は祖父権八が新城島津家の二男に生まれ細竜の姓を賜り分家として鹿児島市に移り島津本家の家臣として平野町に住んでいた。祖父権八は南州翁と斉彬公時代から知り合い、親しく交友していたが明治10年2月12日鹿児島平野町で南州翁と出会い南州翁が申されるには実は親しくお伺い申し上げたき所、慈許大変多忙で御無沙汰申し恐縮至極に存じもす。実は近日東京に参上政府に尋問の儀之有私学校党等兵一万余が護衛する事と相成っておりもす。何やかと色々御世話様にに相成申しあげもすが万々よろしく御頼み申し上げもすと挨拶された。それから2月15日護衛兵1番隊、2番隊2月16日3.4番隊、2月17日5番隊包隊軽重が鹿児島を出発し南州翁は親兵50人に護られ17日出発された。祖父は毎日出兵の世話をされ17日は南州翁に親しく会われ翁の健勝武運長久を祈って激励の挨拶をされた。がこれが南州翁との今生の生別死別となった。9月24日南州翁自害城山落城を知るや祖母は涙を流し誠に残念な事となった。天下の大偉人を失ったとねんごろに神燈を供え南州翁及び兵士の冥福を祈られた。祖父は私どもに南州翁と平野町で出った時の翁の面影、出兵された時の翁の相と想いを折々話し天下最大最高の人物であったと始終敬意の意を捧げていた。父も私も祖父の意を体し南州翁を心から尊敬し出鹿の折は翁の墓参りをしてご冥福をお祈り申し上げる。

 

 

南州翁を偲びて   鹿屋駒之助

鹿屋駒之助は嘉永5年1月11日新城大浜、鹿屋友八の長男として出生、森の桑波田塾に学び明治2年新城常備隊銃隊兵士となり射撃の成績は隊中第1位であった。常備隊隊長中村清徳のすすめで南州翁狩りの御伴役を務め駒どんの愛称で南州翁のお気に入りであった。駒どんは狩りが飯より好きで特に猪狩りが得意であった。猪の習性、体質、居場所ならびに山林一帯の地勢等絶えず熱心に研究し駒どんが行くところ必ず猪が現われた。猪は必ず射ちとめその狩技はまさしく名人級と言われた。南州翁も駒どんの名人級を認められ、狩りにお出かけの際は「駒どん今日はいけんごあんどかい」ともうさるれば駒どんは自信をもって「今日は取れもす」と返事しこれが狩出の挨拶でもあった。駒どんが狩場を案内して南州翁に猪射場を示して猪はこの方向から現われ彼の方向に進むと予告申し上げると予言どうり猪が現われ翁が一発射たれると必ず命中したので翁も駒どんは日本一の名人じゃと称賛された。駒どんは日本一の偉人南州翁の狩伴役に選ばれた事を何よりの誇りと考えて、誠意をもってその役目を尽くし、又南州翁を心から尊敬申しあげた。明治10年西南の役には進んで出兵、新城隊銃兵として薩軍につき戦中も機をみて猪を射捕り南州翁に献上、あるいは新城隊兵士に野猪料理をもって慰労並びに士気振興を図り戦中は得意の射撃で官軍を悩ませたが戦い半ば頃から弾がきれ、無念ながら日本刀で戦い抜群の戦功を発揮したが戦い敗れてむなしく帰省した。戦いすんで南州翁が城山の露と消え給うと聞き数日は飯も食わず泣いて翁の遺徳を偲び供養の誠を捧げた。戦後は農耕に従事して暇々を計らい戦中使用した種子島銃で猪狩にいそしみ、日清戦争頃99頭の猪捕りの記録を作り猪の供養を兼ね猪祭りを行い記念に明ヶ谷に狩神の石塔を建てた。明治末期に200頭目の記録を更新、赤松には狩神の石塔を建てたこの狩神は2柱共現存しておるが村人は山神と称している。残念な事に種子島銃は大事に保存されていたが終戦後米軍の司令で取り上げられ焼捨となった。日露戦争後大勲位功1級伯爵樺山海軍大将は南州翁に習い狩りを楽しみ、新城の山野を目指して狩りに来た。狩りの案内役として駒どんが選ばれ狩宿は駒どん宅とした。大将は駒どんに案内されて滞在中毎日猪狩りに出かけ南州翁同様の狩法をされたが駒どんが案内する所必ず猪が現われた。イノシシは初め大将が撃たれ二発目を駒どんが撃って仕留めた時折矢あたりのまま逃げる猪もあった。駒どんはほおっておけばよかといわれ撃ちとめた場所で猪の毛を調べ家に帰り、長男の軍司に命じ時間と場所を示し猪が倒れて折るはっじゃから取りに行け、今日は二人いけ、今日は一人でよかと下知されたが大方示された通りで子供達も父の達人ぶりに驚いていた。南州翁によって日本一の猪取りとほめられた駒どんに樺山大将は『狩りをするなら新城の駒よ獣みたなら逃がさなせん』と歌を作って下さった。この歌を書いてくださったので駒どんは家宝として住宅の表の掛けて毎日仰ぎ家族諸共大将の御遺徳を偲ばれた。今長孫、兼雄が大事の保存している。駒どんは明治の中頃赤松谷2町余の官有地を払下げをうけ数年余の歳月を投じ田地一町二反、畑地三反の開墾を完成し山小屋を建て農耕傍ら狩りを楽しんだ。この田畑は今長孫兼雄等孫達が遺産として大事に耕作している。南州翁は子孫の為に美田を買わずとうたわれたが駒どんは子孫の為に美田を開拓した。南州翁は日本の発展の為北海道をはじめ全国の開拓の重要性を強調された。この事を狩りの間々に駒どんは翁のよもやま話に聞いたので南州翁の教えにそい赤松谷開拓事業に精魂を打ち込んだと言う。

 

 

南州翁を偲んで  中園休次郎

中村休次郎は弘化3年1月10日新城諏訪中園畩次郎の長男に生まれ家業の農業を営んだ。幼少のころから狩りが好きであったが鉄砲を買う事が出来ずに罠等を利用して狩りをおこなっていたがある日草刈り中兎が近くから飛び出したので鎌を投げたところうまく命中した。これを機に新城の山野に多い兎の習性を真剣に研究し兎は木棒でとれるとの自信をえたので暇さえあれば仮装兎を作り木棒を投げて取る練習を行い山野の地勢と兎の行動をよくきわめ、ついには木棒により独特の兎取り狩法をあみだし、兎が現われるたび木棒を投げ百発百中のメ命中率に自信をもつ段j階に到達、兎狩りの名人と言われた。明治7年戸長中村清徳は南州翁狩場の案内役として休次郎を推挙した。休次郎は百姓の倅の身分で大西郷先生のお供が出来る事に感激推薦を有り難く受けた。休次郎が初めて南州翁に御伴役の挨拶に参上した時、かんげきのあまり土下座し涙を流し有り難い事でございもすと申し上げると南州翁は「休どん、明治は四民平等じゃ、そげんかたくならんでおおらかにないやい、おいどんもかいも育ちじやが、新城に狩りにきもしたでよろしゅたのんもんど、今日から山を案内しやったもんせ」と申されたので休次郎は南州翁のご期待に副うよう天地神明に誓った。休次郎が案内するするところ必ず兎が現われそれを翁が撃たれたが時折打ちそこないがあると休次郎は木棒一本で見事撃ちとめた。翁は休次郎の木棒狩法の名人芸に驚嘆され『休どん、おはんがぼっとはおいどんが鉄砲よか優れ、おはんが腕はおいがとよっか上手じゃ、おいどんは西郷じゃが休どんな大西郷どんじゃ』と申され狩仲間を笑わされた。以後休次郎を西郷どんと村人が呼ぶようになった。休次郎も西郷どんと称されるとご機嫌で南州翁から賜った名前じゃと誇りにして南州翁を心から尊敬申し上げた。明治10年9月24日南州翁に戦死の報が伝わると毎年命日と定め冥福を祈った。中園家では南州翁の形見として鹿の角と石と狩棒が家宝として大事にされた。ある日狩場での休憩の際、南州翁はかるかんを2個ずつ間食に各人に与え、この菓子は殿さま菓子であったが明治となって国民全員が食える菓子となった。今後は殿さまはなく、四民平等で優秀な人物が上にたつ世の中になるといわれた。休次郎はもったいないと思い食わずにつわの葉に包んでふところに入れたところ、翁はなぜ食わないかと尋ねられた。休次郎は恐縮して大変上等な菓子なので家に持参して先祖の霊前に供えたいと返事した。翁はお供え用は後で届けるから食べよといわれ有り難く頂いた。翁はその夜の内に20個入りの箱入りのかるかんが届き休次郎一家は感謝して霊前に供えた。南州翁は狩でとれた大半の獲物は村人に何気なく与えられ無欲恬淡な性格は人真似できない尊さがあった。休次郎も大正13年まで兎千頭を射とめて供養した。千頭の内、四割は南州翁に習い無償で村人に与えた。兎をいただいた川畑政夫が休次郎は兎取りの名人で心も西郷翁によく似ていたと語っている。休次郎は大正13年78歳で病死したが始終一貫南州翁を尊敬していたという。

 

 

南州翁を偲んで   榎屋興助

榎屋興助は安政2年4月1日榎屋景元の3男として生まれた。父景元は新城島津家敷根郷湊村蔵屋敷役人として奉公中、明治2年8月新城島津家私領奉還、新城家廃止となり明治3年1月1日一家そろって新城に引き上げ新城村諏訪に居住する事になった。時に興助15歳で新城常備隊に入隊し、銃隊兵士として訓練を受ける事になった。興助は忠実で強健模範隊員で特に鉄砲撃ちの名人であった。明治5年常備隊が解散され半農半漁として家事を手伝っていたが同7年戸長中村清徳の推薦で南州翁狩伴役として南州翁の狩に仕える事になった。明治8年末の頃南州翁に御伴して明ヶ谷で猪狩りがあった。この時興助は西側の要所に立った。南州翁が撃ち当てた大猪はいちもくさんに興助の方向に突進してきた。猪の矢あたりは危険千万なりと知っていた興助は要領よく我が身をかわした。この日も数人の御伴がそれぞれの要所、要所に配置されていた。これらの御伴は興助が仕留めるものと期待していたが意外にも身を隠して難を避けた態度は卑怯千万なりとして興助を攻撃した。興助は撃たれた猪は当然死ぬるもので危険をおかしてまで仕留める必要なしとして難を避けたが仲間から非難され不覚を恥じ、武士の面目にかかわり申し訳ないと考え南州翁に土下座してお詫びし、死をもって謝罪しようとした。翁は興助の心情を汲み取り「皆さんよく聞いて下さい。興助どんは決して卑怯者ではない。大胆者で落ち着きがよい猪の矢あたりは必ず死ぬものであるが当時はあばれまわり、昔から猪の矢あたりというて危険千万の代表とされておる。猪の矢あたりは興助どんの如く身を隠して難を避ける戦法が良策でこれを狸戦法と言う。と諭された。以後興助に仲間は狸どんと呼び、興助もlこれは南州翁の命名なりとして心密に名誉とした。この事ありて興助は南州翁を心から尊敬申し上げ何事にも誠意をもって尽くした。明治8年私学校新城分校が創立され、興助は入隊して特意の銃操訓練で優秀だった。又剣道も得意だった。同10年2月4日南州翁上京につき私学校徒は全員護衛の任務につき出兵すると陣触れが発令された。興助は出兵の用意を整え、いの一番に出陣して南州翁に忠誠を誓った。2月24日熊本川尻で熊本鎮台と私学校千発隊が衝突して西南戦争が起こり9月24日南州翁城山で自害されて終戦となった。この間興助は得意の鉄砲撃ちで応戦したが弾丸が思うように届かず敗戦に終わった。

 

 

南州翁を偲んで     中村思無弥

中村思無弥は嘉永5年11月21日中村平左衛門清徳の三男として生まれた。松尾学館を卒え、留学生として藩校に入学して漢学を修め明治2年優等で卒業、新城松尾学館教師兼新城常備隊軍務局書記となり同4年郷校松尾小学校教師となる。

明治8年1月私学校新城分校設立して入隊、分隊長に任ぜられ明治8年頃狩滞在中の南州翁は校長安田為僖の請により松尾小学校を視察し次の一説を話された。

政の大體は文を興し、武を振るい、農を励ますの三にありその他百般の事務は皆このものを助くるものである。と又忠孝仁愛教化の道は政事の大体にして道は天地自然の物なりと教えられた。思無弥は父清徳が大の西郷崇拝家で父の話を折々聞いていたが南州翁に直接教えられた事は初めてで大いに感動し忠孝仁愛を基本とし全身全霊で打ち込むことにした。明治10年2月新城私学校徒は南州翁上京につき護衛の為出兵する事の陣触れが発令された。中村家では長男清操、二男秋登、三男思無弥の3人が出征する事になり清操は新城隊副隊長、秋登、思無弥は半隊長に任命された。兄弟3人は日本をよくするため南州翁が明治政府の中心となり天皇陛下の政治を輔翼(ほよく)し奉る体制を造るべきで吾々はその事の実現を期して出兵の任務を全うすると誓い合った。

出征に対し母親ナオは汝等の父清徳は戊辰の戦争に出兵しその目的を達し、御親兵隊に第1回入隊を果たして忠君」愛国の一念に貫徹し、南州翁を心から崇拝して日本政府は南州翁を中心にせねばと口癖に昨年他界された。今後汝等3人が揃って南州翁の従い、上京しその目的を達成せんとす。父の意志を汲み目的達成に全力を注げと門出の激励をされた。兄弟3人は勇んで出発した。2月21日熊本鎮台兵と私学校党が衝突して西南戦争が起こった。新城隊は始め熊本城攻撃に配置され2月末田原坂第一戦部隊に転戦した。田原坂は連日激戦が続き、官軍は猛烈な大砲小銃の弾丸を浴びせた。私学校徒は弾がなく連日連夜斬込隊を繰り出した。3月4日長兄清操は斬込隊長として勇敢に敵陣に突っ込み官軍の肝をつぶしたが数発の弾丸をうけて戦死した。清操は剣道の達人であった。3月12日次兄秋登が斬込隊長で奮戦した。この時官軍は斬込隊を警戒して多数の歩兵銃隊を備えていたが新城の斬込隊は官軍の隊中に突っ込み大きな打撃を与えた。この日斬込隊員は鶴田重則、財部清昌が戦死、秋登も足の貫通、腹部、胸部、頭部に数発が命中して勇敢な戦死を遂げた。3月13日官軍は新城隊めがけて雨の如く砲火を浴びせた。新城隊は分隊長中村清操、中津野武則、池田秋登高級幹部が戦死していたので思無弥は分隊長として新城隊の指揮をとって官軍に強く抗戦した。官軍兵士は鉄砲を打つ時身を隠して撃ったが新城隊は一発一中、百発百中を目指して膝射ちで撃った。官軍は弾丸に不自由はしなかったが新城隊は極めて少ない弾丸が配当されたので弾丸は何より大事に考えた。この日思無弥は陣頭膝射ちで敵を狙い念いりに小銃を撃った。この時池田秋遊は分隊長危ないと足を引いて伏せさせたトタン官軍の弾が頭に当たり、失神し病院に送られた。弾は中心部を外れやがて回復に向かい帰郷して自宅療養が命ぜられた。弾を受けた時池田秋遊が足を引かなければ直死するところであったが人の運命は不可解なものと思い、天は我に何かをなさしむところありと考え死んだつもりで今後全力を尽くしたいと誓った。家に帰ると母親は戦に敗れ、目的を果たさずおめおめと帰るとは何事か、長兄清操、次兄秋登は勇敢に戦死した。中村家の家名にかけても家に帰る事は許されないと大した剣幕であった。思無弥は兄清操も秋登も戦死の際し思無弥を呼び寄せ、一人だけは生き残り家を守り郷に尽くせと遺言した旨申したが母の機嫌は直らなかった。おじの海江田貞一の仲介でやっと納得され、家で静養し健体となった。思無弥は南州翁を政府の中心人物となす目的で戦い、敗戦して南州翁に申し訳ないと考えていたところ9月24日南州翁は自害され薩軍は全面敗戦が決定し終戦となった。中村家は父清徳を始め一家一族南州翁を尊敬していたので祭壇を設けご冥福をいのり御遺徳を偲び敗戦に至りし無力を謝罪した。思無弥は賊徒の罪も免罪となり南州翁の遺訓忠君愛国の精神に生きるため警視庁に奉職し、幹部訓練中戦後復興を旨とする戸長を要請されたが志を曲げるわけにはいかないと断ったが母が戸長を引き受けよとの事でやむなく退官して明治12年2月1日第4代戸長に就任し戦後復興に全力を尽くしその後花岡戸長、新城初代村長、同33年肝付群役所課長となり20ヶ年郡政にあたり大隅の開発に尽くし地方自治の神様と慕われ、退官し、大正7年3月第10代村長在職中68歳で亡くなった。思無弥は約50年公職を歴任し南州翁遺訓の敬天愛人の道を基本とし文を興し、武を振るい、農を励ますの理念のもと、まず明治15年戸長在職中に西南戦争戦死者24名の招魂碑を建てその霊を祭り、学校を興し育英制度を設け産業教育の振興を実践した。又思無弥は漢詩においては新聞社の選者として県下最高の地位にあった。(以上は思無弥翁及びその側近の方々に聞く)

 

 

南州翁をしのんで 留山ハマ

留山ハマは明治3年中村清則の3女として生まれ留山喜冶司に嫁いだ。父清則は庄屋で人徳があり南州翁の崇拝家であった。明治8年の晩秋清則,ハマ親子は南州翁が狩りを終えてお帰りの途中麓の馬場で出会い親子は心をこめて挨拶し狩りの御苦労をねぎらった。この時ハマは数え年の6歳で南州翁に丁寧にお辞儀申し上げた。南州翁は残りのかるかん饅頭をとりだし「良い子じゃ、むぜ子じゃ」というて与えられた。ハマは無遠慮に「これより三角菓子がいい」といった。ハマはかるかんを初めて見たがこの頃子供達が一番好きな菓子は三角菓子であった。南州翁は「こらしもた三角菓子がないから買って食べなさい」10銭を与えられたのでハマは嬉しくなりお礼を申し上げた。南州翁は父清則に向かって「日本では女子、百姓の教育を無視してきたが今後は女子、百姓をはじめ日本人は全員日本帝国民として四民平等の原則ですべての国民が教育を受けることになる。ハマちゃんは良い女子だから郷校に入学して教育を身につけ立派な婦人になるように」と言われた。ハマもこの話をしっかりと聞いていた。

西南戦争で新城郷校は休校となった。明治11年春村の有志の計らいで郷校松尾小学校を開校する事とし戦後復興のため教育産業の振興がたかまったので同年四月郷校の開校式を挙げた。この年ハマは数え9歳満7歳で郷校女子として入学が許された。郷校に女子が入学したのはこれが初めてであった。女子児童は袴を着ることとしてハマは父親の袴を改良して着用男子に負けない立派な成績で毎年優良で卒業成人し台湾総督府の役人留山喜治司と結婚し長生きした。

我が国の教育は明治、大正、昭和と代が代わるにつれ世界で類を見ない教育国となった。南州翁は大将元帥であったが教育にも極めて高い見識をもち我が国教育立国の基礎に貢献された事は大きな偉業で私も南州翁のおかげで郷校を卒業出来て感謝に堪えない

この稿は筆者(永田時吉氏)が直接留山ハマ様に聞いたまま記録した。ハマ様は村人にも事あるごとに南州翁の人徳を語り継がれていた。

 

 

南州翁を偲びて  川畑時光

諏訪の川畑長次郎は病身であったが草鞋作りの名人であった。南州翁が狩りに行かれる時は何時も草鞋脚絆であった。その草鞋は長次郎の作ったものを常用された。長次郎も翁よりご注文をいただき有り難く感謝して誠意をこめて草鞋を作った。翁は草鞋が大きいのでと2足分を支払われたが1足分でよいと半分をお返しした。すると「長どんおはんが作いやい草鞋はまこてはっごこちがよかで2足分の値打ちがござんさ、取っておっきゃい」と2足分を払われた長次郎は私が私が病身で憐れんでご厚意といつも感謝していた。

翁は鹿児島に帰省される際は何時も長次郎の草鞋を5足分もって帰られた。それで長次郎は死ぬまで南州翁の偉大な人間味、崇高な人徳に感謝していた。