東川隆太郎さんと新城の町歩きパート2

東川隆太郎さんと新城の町歩きパート2-1

「新城は観光につながるような所は何にもないんです」1年前環境省の「エコツーリズムとグリーンツーリズムの融合による地域活性化事業」の中での新城地区のみなさんの意見でした。環境省、垂水観光協会の委託を受けたJTBの専門家大隅さん,吉谷地さんが3年がかりで私達の意識を変えてくれました。

『これからの観光資源は足元にあります』の言葉に新城の歴史を山田さんが徹底して調べ、資料を作成、新城郷土史研究会を立ち上げ毎月1回勉強会を開き、新城に眠っているわずかな歴史も掘起し、草ぼうぼうの史跡を整備仲間と案内板を立ててきました。あとはこの新城の歴史を誰が案内するかが大きな課題でした。新城の歴史を5地域に分け会員が自分の地域だけでも案内出来るようになろうと今回町歩きの達人「東川隆太郎」さんにお願いした勉強会です。

 今から400年以上前、1561年から1574年まで島津氏の三州統一に肝付、根占、伊地知がはむかい、新城もこの戦の舞台となったようで地域の地名に残っています。新城戸越(血止めの坂)耳切り坂(みんけんざか)など戦に負けた肝付勢を島津勢が追いかけてきて戦となった場所

 島津氏が三州統一、垂水は明治の初めまで一門家の一つ『垂水島津家』として隆盛を極め、新城は分家として16代太守義久の娘「新城様、お玉様」が化粧料として賜わり孫の久章と分家した場所、孫の久章には18代太守家久の娘が嫁ぐなど本家から絶大なる信頼を得ていたところです。

 明治10年2月西南の役前、西郷さんは根占に滞在されていたようで新城に嫁いでいた上田家のマスさんに「しばらくはこれないから」と挨拶していかれ、そのまま城山に散られました。垂水、新城から400名が西南の役に参戦しています。

 桜島、錦江湾がジオパークに認定されました。新城は阿多カルデラと姶良カルデラの地層がよくわかる地域である事も今回発見しました。自然、歴史を活かし垂水の観光に活かしていきます。