西郷隆盛と垂水

隊編成

その翌日2月13日御殿の下の旧練兵場で隊の編成があった。それから毎日交替で私学校に番兵に出る事になった。自分が属する隊は五番大隊で清水、頴娃、川辺、谷山、出水、種子島、鹿児島及び垂水の人達混成されたものであった。隊長は平野壮介といって年三十二才,肥えた大柄な人で穏やかな善い方であった。中隊二百五十人を更に左右二小隊に分けられた。そして垂水の人で同隊になった者は伊籐嘉衛門、安田次郎兵衛、坂田源次郎、前原五郎右衛門、島児鞍助、高野市之進、篠原市助、土屋宗之進、本田荘八及び自分とも十人であった。

いよいよ繰出す

二月十一日から雪が降り出し十五日出発の際まで続いた。積もった雪の深さ一尺(約30センチ)余、あるいは二、三尺に及んだ所があるという。実に未曽有の大雪でそのキラキラ光る中を愈々出軍となったのである。

桑島真氏の談  雪におおわれた広い練兵場も真っ黒く軍隊で覆われた。すると閲兵とでもいう訳か、多くの将軍達が隊の左端から歩いて来られる。それをみてあの人が西郷殿だろう、否、あちらの大きな人だろうなどと語りあい、やかましくしている時、突然一人の隊長が励声一番「誰かこのうちに下駄ばきのものがあるようだ、痕がついている。誰だ前に出ろ!!」と言うと一人の青年が恐る恐る出た。すると眦の避けた隊長が装束は草鞋脚絆と言い渡してあるはずそれになぜ下駄ばきできたか、軍令に背くものは斬るといって腰をひねり、つか頭に手をかけたところに他の隊長がその肘を抑えて「先ず待たれよ西郷先生が今度までは許しておけと申された」と言って止めたのでホッとした。出発に際し弾薬各百発ずつ、少年は五十発ずつ交付され、第一番大隊、第ニ番大隊の内を左右に分かち右翼は大口方面、左翼は伊集院方面へと繰り出され、整々粛々として進発した。翌十六日には第三番大隊、第四番大隊が前のごとく出発し、わが第五番大隊は最後の日即ち十七日に発足した。水上坂(ミッカン)を登る時、だれやらが積雪の中に陥没した。それほど大雪であったのである。その日は西市来まで行って泊まり、翌十八日は阿久根泊まり、十九日は出水の麓であった。出水の宿所は何という人の家であったか、東方に面した高い石垣の上、見上げる所に門があって、すこぶる広大な構えの家であった。そして町の人びとだと言って、多数の加勢人があって、大変な御馳走をされた。この家の人も従軍されていられるとの事だった。さてここまで来るのに毎日草鞋の十二、三足ずつ踏み破ったのである。

宮崎県高城の堀之内吉蔵氏の談  自分は当時十六歳で身体も小柄な方ゆえ、下人を従えていたところ、下人の供は許さぬとて鹿児島から帰されたので、それからは何もかも自分で持たねばならなくなり、先ず鉄砲が重い、腰の刀も重い、、弾薬は五十発であったけれどそれが余計に重い。そこで出水の宿所でその半分を床下に捨てて行った。

船の壮観

翌二十日朝立ちで一里ばかり歩いて米之津に出た。見ると海岸一帯に夥しい船である。第何番何々隊と言う旗が翩翻(へんぽん)として、いずれもその船床に翻って婆娑と風にはためく音が海を圧して勇ましい。その数何百であったものか、遠く天草辺りからも雇ってきたそうである。 兵隊それぞれ乗り込み終わると直ちに出帆して夕方水俣に着いた。その晩風向きが悪いというので、ここからは陸行すべしと、一胆海岸から一里奥の方にある町までいったら又船で行くという事になって、引き返してきた船に乗った。風は寧ろ追手で翌二十一日夜が明けて見ると幾百船の白帆が一斉に同じ方向へ群走する光景というものは実に何とも言えぬ壮観であった。途中戯れに発砲してみたり、なんと今日を限りの世の中であった。その夕方松橋に着いたが今思えば大変な早さである多分恐ろしい強い順風であったらしい。

熊本城に懸る

その晩十時頃、自分は番兵にでていたが、今から直ぐ出発という事でそのままあるいていった。途中宇土でちょっと休んで翌二十二日払暁(ふつぎょう)川尻に着いた。ここで今まで携帯していた荷物の内、戦いに不要な物や外套などを人家に頼んで置いて、それから駆け足でまっしぐらと熊本城へ馳せ向かった。熊本は三日前から市中の家を鎮台が焼き払いつつあったそうで今はその煙で只濛々漠々と(ひろくたちこんで)して前方は城楼どころか何もみゆるものはなかったが丁度安政橋の上に来かかった時、大砲をうちかけられた。その音で初めて彼の方向に城があるのだという見当がついた。それをこちらは小銃で応戦するのであった。いよいよ本舞台となった訳である。それからというもの、ただ殷々轟々(いんいんごうごう)空中が鳴りわたっていた。そして負傷者がおいおい出てくるのであった。そこでこれはどうしても前方に進んで彼の城壁の真下に行ってその掩蓋(えんがい)の下に安全を図るのが第一との事で、皆無二無三に突進していった。しかるに行けばいくほど血塗れになって、後退する負傷者や、道に横たわる吾軍の死骸が次々と多くなる事に驚いた。そこでちょっとためらったけれどもやはり先導に従って進み漸く例の掩蓋下に達した。なるほどこれなら軒下に雨をしのぐのと同じである。城兵もまさか自家の軒下に敵が避難してこようとは、思い設けぬことであったろう。すべてこれらのことは熊本隊のみちびきによるものであった。かくて午後三時頃、夫卒が飯を竹籠に入れて担ってきた。それがまちに待った昼食であった。夫卒が何番隊の方々は何処にかと言い終わらぬうちに「何番もかん番もあるものか早くこなたへよこせと奪い取ってみると、その飯というのはまるで粟ばかりの物であった。それでも昨夜来喰わずに歩いたので、極度に空腹を覚えていたからただもう貪り食ってしまったのである。暫くたってようやく味方の大砲が到着したらしく、初めて味方の方から発砲する音がしだした。一同躍りあがって、嬉しがった。日暮れ前に戦いがやんで引き上げとなった。味方の方は只散々に崩れていたが、安政橋に来た時漸くまとまった。そしてその夜はそこの河原で露宿したのである。

小倉鎮台、植木、田原坂、木葉町、南の関

翌二十三日未明、小倉鎮台がきたというので、それに向かって繰り出されたので、段々進んでいくと、先発はすでに直木せ衝突したと言って途中次々と死傷者を運んでくるのに出あった。向坂という所まで来ると今度は敵の倒れているのが多かった。ある一か所では十八人も遺棄されているのを見た。漸く昼前の十一時頃植木に着いたがもう官軍の影も無くそこでやすんでいると午後三時頃になってまた来たというので直ちに出発し、今度は田原坂で衝突したがたやすく撃退し、追撃しつつ木葉町に入った時は夕方であった。ここでは銃器弾薬の分捕り夥しく、なお追撃を続けて南の関手前までいき、そこから引き返し植木にきて休息した。翌二十四日は雨の降る日で戦も無かったから分捕り品の分配等があった。自分は戦友安田次郎兵衛殿が昨日の戦で腕に負傷されたのでその看護を命ぜられた。

鍋田河原の激戦蜂須賀某の剛気

二十五日は山鹿にいって翌朝鍋田河原という所から大進撃が開始された。この日の合戦はすこぶる烈しく、我が半隊長等も討死された。またまた大勝利であって敵の遺棄死体は南の関の手前腹切坂まで八十六個を数えた。その日は又山鹿に引き上げたが、そのまま隊を組んでこいとの本営の命であるというので今日の戦いは見事な大勝であるからこれは必ず御馳走でもしておおいにねぎらわれるであろうと思って居たところ、豈(あに)図らんやで平野壮介隊長曰く、「斬りこめと命ぜられ直ぐ斬りこまんのはイカン、他の隊はどうあろうとも吾、第七中隊だけは真先に進んで斬りこまにゃイカン、今度若し進まぬ者がある時は後ろから斬り捨つるぞ、特に田舎ん衆はヤッセン。ともってのほかの事である。面喰って一同恐縮するかと思うとこれまた意外、「田舎ん衆との一言はけしからぬ、と鋭き憤怒の声を発し詰め寄る者があった。そして斬りこめの号令があってもしり込みして進まないのはむしろ御城下の人達である。それに何ぞや田舎ん衆等とは言語同断侮蔑極まる。よし然様(しかよう)仰せらるなら、今後必ず御城下ん衆が真っ先に斬り込まるるか改めて拝見しましょう。そこで若し進まぬ方があったら、この田舎もんの吾輩が斬り捨つるぞと大いに威嚇した。その面上には小鬢の負傷で血塗れになったか、あるいは敵を切った時の返り血を浴びたのかまるで赤鬼のようなもの凄い形相である。されがさすがの御城下兵児等も辟易(へきえき)したとみえて誰も一言酬ゆるものがなかった。われわれ田舎者の方では痛快この上もない事であった。さてこの人は頴娃蜂須賀某という豪傑であった。この人は初め押伍であったがのちには小隊長になったようである。因みに我が第七中隊は遊撃隊であったのである。

 

山鹿帯陣の事

山鹿滞陣中はのんびり湯冶などしていて、たまに味方に弱味のあるところがあれば、その援助に行ったりして日を暮らしていた。自分は当時十八歳で身体強健な方であったから、余り疲労困憊等も無く又一度も病気せず負傷もせずといったあんばいで所々に転戦していたが、山鹿滞陣中に面白い事に出あった。否、自分には関係なく只見物したのである。一日湯冶に行っての帰りがけに池辺隊のの宿所の前を通ると喧嘩口論の声がするので、ちょっと立ち止まって耳を傾けた。するとたちまち、表に出ろと言う声がして同時にどやどやと人々が出てきた。その中に二人白刃を噛みあわせたまま徐々とでてくるのであった。その傍らから一人の男がそのままの構えを崩してはならぬぞといいつつ、介添をしているのであった。やがて道路上の各の足場が定まるとよしと言って介添人が身を退いた。一方は三十才近い色の浅黒い中背のガッチリした男、一方は二十一,二才の色の白い美男子である。年上の方が先組合った刀をスッと引き外して後へ飛び離れると、年下の方は一歩踏み出した。と見るとお互いの白刃が空に閃き、日光を反射して、火花が散るように見えたが、直ぐ又双方とも跳び上がった。そしたら年下の方は小鬢と肩の辺りから血が流れ、年上の方は拳に血が出ていた。更に双方いずれも中段の構えでジリジリと親指で歩み寄って行く。この時すでに見物人も沢山集まっていた。誰も皆若い方に力を入れていたか知れぬが、どうしても年上の方が強そうであった。エイと一声年上の方が刀を引くようにして後へ跳び退いた。年下の方は前へのめるように打ち倒れた。すなわち勝負は終わったのである。然るに年上の方も流石に疲れたとみえ、刀を杖について肩息荒く吐いていた。すると兄貴の仇と呼びかけて十七、八の少年が真っ向から斬りかかった。ハッとしたように身を沈めて横に払った。こちらは確かに手ごたえがある。少年の方は空を斬って無念と一声、脇から噴出する血を左手で押さえながら兄の屍の上にうち倒れて死んだ。

東の方に向かって進む  小濱加治木隊長

どんな形勢であるのか、又どういう画策があるかそんな事は我々にはわからなかった。。知ろうとも思わなかった。そしてただ命令どうり神妙に動くのであった。今までは小倉鎮台を攻めて、北へ北へと進んだものを、これからは東へ東へと豊後方面に向かって進むようになったのである。二月の中旬頃鳥の巣という所に行ってしばらく滞陣した。ここの戦いに我が垂水の高野市之進が戦死した。この時分の事である。加治木の小濱某という人が加治木隊と言う別動隊を編成して来られた。この小濱隊長が敵に接すると鎮台位を斬るのは刀の汚れじゃと逃ぐる鎮台兵を後から引き倒して踏みつぶし、又土堤など這いあがらんとする者の足を捉えて引きずりおろし「それ!誰か斬れ」などまるで子供をあしらうようであった。そして吾々少年に対しては「オイオイ深入りするな、あとからくるがよろしい」などと情けある言葉をかけてりして誠に善いおじさんであった。

酒宴最中敵の襲来

行く行く敵を追い払って進み大津という所に着いた。ここで平野隊長は八代の本営に転じ、後任は奥雄次郎という人が代わられた。その日は丁度三月の節句であったから平常なら家にいて菓子でも食うものをと思いながら町の店で羊羹等を買って食った。ここでは分捕りが非常に多く、中でも銭がたくさんあった様子で吾々も十五円ずつ貰った。又一等の月毛馬の立派なのがあったが早速これに奥雄次郎新隊長や平之馬場の伊地知吉彦という小隊長などが乗ってみて嬉々とはしゃいでいた。ここには一週間ぐらいもいたであろう。吾々の宿所は挊紺屋(かせぐや)であって美しい娘がいたが三味線が上手であるという事であった。そこで或る晩酒宴を催し、その娘に三味線を弾かせ歌う、踊るの大騒ぎをやった。こんな時に生憎なもので敵軍襲来、という叫び声が聞こえて驚き跳び出した。ところが最早そこまで攻めよせて来ていた。そして今の今まで踊ったり歌ったりした人等がバタバタ殪(たお)されたのは気の毒な事であった。遂に矢部町まで敗退して一夜を過ごし、猶そこにもたまり兼ねて更に久摩山の下の豆原場へと退いたのである。

赤松峠の悲劇

(鹿児島上町の蕎麦切屋の二男藤太郎という者、垂水本町の蕎麦切屋に養子に来ていた。それが十七才の時であったそうで、その実見談。戦死者が日に日に増えて兵員が著しく減ったので補充兵募集が行われた。城下の武士はすでに残っている者が無かったから、町人、百姓のうちから募集した。元来町人と言えども気概ある者少なからず、特に昨今味方の不利を聞いて憤慨しつつおおいに敵概心に燃えていた際であり且は腰に大小を差し肩で風を切る武士の颯爽たる姿を羨んいた時代でもあり、又こんな時こそ刀をもって人を斬って見たいような、異状な衝動も受けていたのであるから、たちどころに一隊の新募兵団が出来たのである。最も田舎地方に残っていた武士も若干その中に在ったのである。これを二番立ち、または後立ちと行った。一同勇躍して出発したがかの有名な相撲取りの石千代なども加わっていた。頃は青葉茂れる初夏の季節で暑さは日に日に募りつつあった。肥後の国は日州境の赤松峠という所にさしかかった。この辺の戦いは皆味方の勝利で行く行く敵を追い払いながら進んだのであるが、ここ赤松林の中に細谷川があって道はその川沿いに上流の方に登り、一町ばかりして飛び石伝いに向こうに渡ると今度は下流の方へ川沿いに下り数十間にして向こうに曲がって行くようになっている。この谷川の岸にきた時、三人の鎮台兵が逃げて行くのを見た。たちまち味方の一人が抜けがけして追いすがった。敵は三人とも後を振り返りふりかえり走って行った。飛び石の渡りを超えて数十間の所で追い付いた。逃げる者はたいてい後を見い見い走るものである。そして腕に覚えのある者なら追う者が味方を離れて一人になった時、立ちかえってきてそれを討ち取るものである。今これは丁度その型にはまった訳である。余りの二人は止まらずに逃げて行ったのでここに一騎打ちの形のなったのである。鎮台兵の方は拳銃を構えている。こちらは太刀を上段に振りかぶっている。川を隔てて此方から一同立ち止まって見ていると、あたかも芝居の花道で大立ち回りが演ぜらるるところのようである。双方立ち向かって構えたまま隙を狙い気合いを図っているのか一分、二分、三分微動だにせぬので「早く斬らんか!!」と此方から大声で催促する。それでも動く気配が見えぬ。すると突然一発の銃声が此方の耳元に響いて向こうの鎮台兵がパタッと打ち倒れた。振返ってみると味方の一人が銃口にまだ白煙の消え残るのを提げて走って行き、直ちに死骸を探って財布を曳き出した。実に敏捷の動作で一同驚愕した。財布には二円ばかりあったそうである。一同も漸くそこによってきたがかの一方の味方の男は振り上げた刀を杖につき、茫然と自失したように突っ立っている。これはちょっとおかしいぞと思って聞くと何も答えずに涙をはらはらと落とした。いよいよ怪しいと思って重ねて尋ねると、「この者は私の弟である」と言って声を出して泣いた。一同いたく胸をうたれ、涙を流した。その後程なくして、かの銃で撃った男が戦死したが、皆々好い気味だ盗賊め」と言った。

 

武田の苦戦 立山氏の談に戻る

湯の村と言う所に一週間ばかりいて、それから日州に越えて冨高新町に出て、中一日居て細島へ行き、更に二、三日して豊後の竹田に向かった。竹田に着くや否や、いきなり敵の台場に突撃を試みた。。ところが意外に猛烈な射撃を受け、たちまち味方が将棋倒しになった。これでは一気に乗っ取る事不可能とあって、此方も台場を築造してその陰に止まる事になった。その台場のお互いの距離が甚だ接近したもので、両方から握り飯を投げ合った位である。(ここに堀之内吉蔵氏の談を挿入する)敵、味方の台場が頗る接近していたので銃砲、声の鎮まった夜等話し声がよく聞こえた。そこで悪口を言って罵りあったり、あるいは石を投げ合ったりしたのであるが後には慣れてきて握り飯を投げてやったりなどして戯れた。又立山氏の談に戻る。朝一旦台場に這入ったきり、夕方まで決して出られぬ、それに初夏の暑い日が照りつけるので遂にこらえきれずして逃げ出してしまった。そして古城という所へ逃げ行ったりトンネルに逃げ込んだり実に右往左往の乱走である。自分も小麦畑の中を走っていて打ち倒れた。起きようとするけれども立つ事ができぬ、これは必ず足の辺をやられているに違いないと悲観におちながら手で触ってみるとそれは麦に絡まっているのであって怪我ではなかった。それとわかると安心して元気を奮い起こし又走り出した。この騒ぎは」吾等ばかりではなく同時に町の人びとも狼狽して逃げ出したがそれが又一段と輪をかけて大騒ぎとなり、真にもって気の毒な事であった。一人の老婆が幼児の手を引いて逃げる、その惨めな姿を傍にみて自分は己を忘れて憐憫の情にうたれ願わくば、この人達にけがなかれしと心中に念じつつ走る事であった。トンネルに逃げ込んだ人達は畳をもってその入り口をふさいで弾丸よけにしていたのであるがついにそこも捨てて古城の方へ逃げてきた。この日我が垂水の坂田源次郎も本田荘八も戦死した。それから不思議なものである。というのは清水の人で足を撃たれて歩けぬのをその戦友二人で左右から抱えて引き上げてきおったが又流れ丸が来てその負傷者の腕に当たった。そして抱えている両人にはかすりもしなかったのである。さてこの戦いは非常な大敗で全隊で五,六十人程しか残らぬという惨憺たるものであった。この時、鹿児島の米倉人足等を駆りだし、例の相撲取りの岩千代などその他百人ばかりの新手をもって補充された。すなわち前の赤松峠のあの連中であろう。

臼杵(うすき)に出ず

一時は古城にも遁入していたものの、とてもこんなもの凄い所に長居が出来るものでもなく、再び逃げ出してただひたすら東を望んで走った。遂に臼杵の海辺に出た。ここでは敵兵不意を喰らって狼狽してそこにある城の上に逃げた。それを追撃して更に海の方へ追い出したのは面白かった。敵は海中に飛び込んで沖に碇泊の軍艦目指して泳ぐ、それをボートに救い上げる光景もも又一興であった。軍艦から盛んに砲撃したけれども、別段被害も無かったから遂に尻を落ちつけて1週間ばかり居た。

永井村「に立篭もる

大勢日に非なりで、またまた退却せねばならなかった。佐伯まで十八里(72k)の道を一睡もせずに歩くつらさ、田圃道で田の中に眠りこけて隊から遅れる者もあった。翌日は又重岡まで行き、そこにも長く滞在は出来ず、遂に日州永井村まで退却して全軍ここに立篭る事になった。かかる時の将帥(しゅうすい)たちの優慮をよそに吾々兵卒の気楽さはただ朝夕の食事の事のみ考えていた。どこの町であったか酒をたたえた四斗樽を店先にすえ柄杓まで添えてあったので酒好きの人はもちろん、みなみな喜んで飲んだ。又あるところでは黒米(玄米)を食わされた。それは冷遇の意味では無く精米が間に合わなかったのである。又重岡かどこかではお寺に宿がとってあったが若い者どもがそこの木魚を叩いてみたり、あるいは鐘を鳴らしたりして読経の真似をしたりまるで命がけの戦争にきている人とは思えぬほど無邪気なのんきさであった。永井村に立篭った頃は丁度長雨の季節であった。その幾日目であったか、いよいよ切り破りという事になった。

可愛岳突破

可愛岳は最初当方のものであったけれども、捨てておいたので熊本鎮台が今は占領して、本営を構えている事となった。一体この山は一面がゆるい勾配で他の一面が急に険しい断崖となり、すこぶる要害な場所である。されば敵はこの要害をたのんで油断しておろうから、そこを突破しようというのである。それは夜であった。逸見殿が先頭に立ってその断崖の方から粛々と進むのであった。そして枝折り(しおり)として暗夜にも目につきやすい白紙の札(えぼ)を所々に結び付けてある。それを頼りに一同声を出さないようによじ登る。するとおりからの雨空で咫尺を弁ぜぬ(ほんの少しの先も見えぬ)暗夜の事であり、敵陣近く忍びよった事でもあり、いつしか疑心暗鬼を生じ、前方にある一団の人影を敵かと思って逃げ出し、崖を踏み外して落ちる者もあった。自分は幸いそんな目にもあわず漸く頂上にたどり着いた。(吉井嘉徳殿も落ちた人数のうちで気絶していて目が覚めてみると朝八時頃でがけの下に倒れているのに気付いた。と後に同人が語った。) 頂上には早敵影を見ず、山と積める兵糧の前で隊長連の豪快な笑顔に接したのみであった。牛肉、魚肉、パン、餅、外套その他枚挙に遑あらず(まいきょにいとまあれず)それを隊長が「みんなこれを背負うがなる量かるえ」(かるがないひこかるえ)と言われたので自分は餅とその他の食糧と足袋を沢山取った。そしてこれから山中を南に向かって歩くのであった。途中で彼の分捕り品の御馳走を食べるのに人の隠していないと奪い取られる恐れがあった。それほど人心が浅ましくなっていた。翌日やはり山中であったがこの時初めて西郷先生を見た。キチ縞の単衣を着て裸足で歩いていられた。狩りで鍛えられた故か苦しそうにも見えず又何等心配そうな顔色も見えなかった。(永井村に在りし薩軍数数千,内四、五百人のみが脱出。八月十七日午後十時頃より十二時頃までの間に河野圭一郎、逸見十郎太は前軍、桐野利秋、村田新八は翁の身辺。中島健彦、貴島清は後衛)

三田井口に突入

三田井口は官軍が固めていたけれども、何かは恐れんまっしぐらに突入した。驚き狼狽する敵を瞬く間に斬り散らしたそうで、自分達が到着した時は夥しい鎮台兵の死骸が庭にも座敷にも転がっていた。又一人の敵兵を床下から引きずり出して斬るところもあった。ここでは沢山の米俵を分捕ったけれども仕様がないから悉く土地の人に分配された。薩州さんは偉えなどと追従(ついしょう)を言われた。現金七千八百二十円、米二千五百包、その他戦利品多し。ここで隊を前、中、後の三隊に分け中軍で西郷先生を護衛する事になった。西郷先生はここから駕籠に乗られた。

 

稗(ひえ)の飯

なるたけ敵の目に着かぬ所をとて、只ひたすらに山路を急いだ。ある日のことである。自分達の隊は中軍で西郷先生を護衛しながら丁度昼頃一つの山家に着いて、暫時そこに休息した。先生と二、三の幹部だけ座敷に在って、吾々は皆庭に尻を据えていた。どうもこの頃食物が充分でなかったので、一同腹が空いてたまらなかったのである。そこにひとり先生の前のみ一個の大きな鍋が持ってこられた。それを見た一同が浅ましい事には「あれはなんであろう」と初めは私語いていたがいっこうにこちらには渡されぬのでついに声高に「あれはなんであろうか、食い物であろうに、」と言ったのである。庭と座敷ちの距離僅か二間余(1,8M)、聞こえぬはずがあるものか、終始黙々としておられた西郷先生、ツト立ちあがってその鍋を提げてきて、黙って皆の中におろしていかれた。さすがに一同恐縮してただながむるばかりであった。それはむろん米の飯ではないが、といって粟でなし麦でなし一種異様のものであった。後で聞けば稗飯であったそうである。

敵の士官に強いのが居った

長駆破竹の勢いとか、猛虎群羊を駆るごとしとか、いう形容はこんな時にあてはまるのであろう。要所要所を固めた官軍を蹴散らしつつ、遂に隅州横川に出た。ここで斬り散らした鎮台兵の死骸を皆焼却した。蒲生に達した自分達は前軍であったが、官軍を駆逐しつつ吉野越えに近くなった時、逃ぐる官軍の中から一個の士官が振返って、サーベルを打ち振りつつ追いすがる者等をバタバタと斬り倒すのであった。それに恐れて近づかぬようになれば又逃げていく。追いつく程になると又振返って、ドッコイドッコイと掛け声をして斬りまくる。ために味方のたおるるもの少なからずあったけれども、天晴れ惜しき勇士ぞ決して鉄砲で撃つなとこちらは制し合ったのであるがやはり心なき奴が遂に打倒してしまった。そしてその手帳を探り出してみたところ、これは鹿児島高麗町の田中某という人であった。どうりで強かったと皆感嘆した。

逸見殿先鋒を譲らず

吉野の涼松の茶屋で休憩した。ここで前、中,後の隊の繰り替えをする予定になっていたのを我隊長逸見殿がぜひこのまま前軍で置いてもらいたいと言い出したが隊の者一同もウンそうそう前軍行きたいものだ、と勇ましげに声援して、さて顧みて味方の者どもと顔を見合わせながら小声になって、馬鹿な今更何の功名ぞと嘲って舌を出した。ああ長い間の戦苦に飽き、敗軍又敗軍、漸く末路に近づいて,総ての希望は絶え、為に軍紀弛み隊長の威令も衰えたのであろう。今や一葉落ちて天下の秋を知る季節で何となく心細いようであった。それでも脱走者は一人も無かった。

疾風の如く殺到す

西郷先生の許しを受け、引き続き前軍として出発した。吉野の村役場の城戸にて隊を立て直し、今までの携帯品はことごとく捨て、只銃器と食器のみをもつ事にし、以て身軽にならしめた。そして皆刀を抜けとて、いわゆる抜刀隊を作ったのである。八ヶ月以前に出発した懐かしい故山、今眼前に見えてありながら、残念至極にも敵の陣地である。感慨無量、墳恨骨髄に徹し、一同之が奪還を心に誓い、歯を噛み肩を怒らし雄躍して前進し勇壮な軍歌の声にも一層の力がこもっていた。吉野ヶ原から韃靼堂(たつたんどう)に降りて福昌寺門前,内之丸,浄光寺下と馳せ過ぎて高野山の下に出たかと思うとまっしぐらに私学校裏門に突貫した。驚き、あわて、守りを捨てて逃ぐる敵のあとから、味方の打ち振るう白刃きらめいて走り行くのを見るのみで一発だも銃声を聞かずたちどころに奪還占領するを得た。敵は米倉の方(小川町赤倉の方)へ退却したがそこから始めて発砲しつつ応戦するようになった。

逸見殿撃たる

官軍が米倉の方からしきりに射撃するけれどもこちらは石塀の陰で笑っている。すると好い気になった若い人達二、三塀の上に登って大手を広げて嘲笑するので、そこの逸見隊長が現われて「おい!馬鹿らしい事をしちゃイカン、そうして撃ち殺されては何もならん。死ぬ時は必ず一人以上の敵を倒さなければ」と言われた時,カッと音がして隊長が後にばったり倒れた。頭から血が流れ出て、みるみる面色蒼くなり、息は絶えてしまった。驚き駆け寄った仁礼某等、叩きおこして口に宝丹を含ませ激叱して気を励まさせ、ようやく蘇生せしめた。するとたちまち愉快極まる陣屋の酒宴、中に益良夫(ますらお)の美少年、とうたい出して隊長自ら気をふるわるるのであった。しかし頭痛がひどいのでもう駄目と思われたか帯剣をはずして「これは先生の物だから返上してくれ」と遺言めいた事をいわれるので、又宝丹を食わせはげました所今度は「先生に会わせてくれ」と言い出されたから皆で以って興に乗せて送った。逸見殿はこれまで12ヶ所の負傷があったとやら、又いつも大野太刀を従者に担がせていられたそうであるが何時どこで捨てられたのか、その従者というのも今はいなかった。

最後の軍使を見た

又官軍が城山に登った、という事で高野山の後から駆け上っていってこれを追い払い、なお追撃して山を下り県庁まで行った。そしてそこから金倉に篭っている敵と互いに銃火を交えた。ここで自分は新しい服を分捕って着たが、それは海軍軍医の服であった。一週間ばかりして県庁も火をかけてしまった。そこには官軍の手負いなどがいたはずだが皆焼かれてしまったのでしょう。それからは自分達は二の丸の内に引き上げていた。八月十六日(新九月二十二日)、山野田、河野の両氏が軍使として軍艦へいかれるのを見た。引きまわしを着て、白旗を振りながら出て行かれた。その翌日、河野氏は留められて、山野田氏のみ帰ってきて、今晩限り降伏をせねば明日はいよいよ総攻撃をするぞという返事を齎されたそうである。けれどこの日も遂に暮れて、降伏どころか城を枕に討死の覚悟とみえた。

遂に捕虜となる

明くれば八月十八日(新九月二十四日)いよいよ総攻撃が開始された。銃声も次第に激しくなってきた。自分達は敵に近い所にいては心細いから山の味方と一緒になろうと思って二の丸の内から逃げ出して照国神社の西の道から彼の峻坂を登ることであった。この時の戦友は皆酒に酔っていたように記憶する。谷山の人が三人、鹿児島の人が四人、自分を入れて八人であった。やや登っていくと意外、上の方から鎮台兵が鉄砲を撃ちかけてきた。いつの間にに占領していたものかとびっくりした立ち止まったがうまい具合にそこに岩陰があったから、早速皆々そこに隠れた。暫くして出ようと思って顔を出して見るとやはり鎮台兵が筒先向けて構えている。上にはかくのごとして行かれず下へ逃げても後から撃たれそうでむなしくそこのとどまっているのであった。しかしいつまでもこうして居られる訳のものでもない。最早万事休した事を感得した自分は思い切って帯を解き、それを打ち振りながら、降服、降服と呼ばわって走り出た。そしたら鎮台兵が左右から跳びかかってきて、後手に縛ってしまった。他の人々も続いてくるので、同時に来ると撃つぞ、一人一人出てこいと言って一人ずつ縛った。そして上の方に曳かれていった。すなわち頂上のやや平な所にでたが立派な士官たちが椅子に腰かけている。その前で一応取り調べを受けたのである。特に刀を調べて見つつあった一人の士官が上官に向かって「こいつを貰って斬って見たいのですが」と言って指した者は谷山の人で肥えて頗る見事な体格であった。生命惜しさにせっかく俘虜になったものをやはりここで斬られるのかと情無さを嘆ずる色が皆の顔に浮かんだ。しかるにさすがは上官である「今日は沢山斬らねばならぬ日じゃ、こんな俘虜など斬るのはよしなさい」といったので一同ほっとした事である。他にも捕虜があったがそれ等と共に草牟田の方へ曳いていかれ更に武や騎射場に転送され、午後四時頃上荒田に着いてそこで食事を許された。しかし何も食いたくなかった。ここには早数十人の捕虜が来ていた。そして吾々と同時に降伏した樺山資治という人に姓名を認めてもらって差し出した。ここの官軍は大阪鎮台であった。

 

捕虜の不謹慎

三日目には

数珠繋ぎになって磯へまわされて、そこの鋳造場の倉の二階に押し込められた。ここには既に四、五百人の大勢となっていた。ある日の事である。それは磯島津邸で陸海軍大集会が催された時、われわれが例の倉の2階から窓越しにみていると真下の道路を立派なな士官たちが、あるいは馬上で、あるいは徒歩でぞろぞろと通って行くのである。するとこちらから声をあげて「あれが七左じゃ、あれが七二じゃ」と野津兄弟を見つけてどなりたてついには握り飯を投げた者もあった。するとそれにならってこの窓、あの窓から雨が降るように握り飯の礫が投下された。かくて立派な金モールのついた軍服の肩から背中へベタベタと打ちつけられたのである。ああ、何たる乱暴であろう。野津兄弟今は立派な将校である。それの対してこの無礼は許し難い事である。しかも自分達は自由を奪われた囚われの身でありながら、こんな不謹慎な事を致すとは誠に言語道断、必ず重い処罰があるものと思っていたがあにはからんや、そこの窓を密閉され、恰も炎暑の蒸し返されるような苦しみをなめさせられたのみであった。

釈放される

一週間目には自宅謹慎という事になって、倉の中から放ちだされた。垂水の人で同じ運命にあった東伝左衛門、川上用八の両氏と祇園州まできてそうめんを一杯づつ食った。自分が金を五十銭もっていたからこの代は払った。この時東氏は女羽織を着ておられ、可笑しな風であったがどうした訳であったか今考えてみて不思議である。町は焼け野原となっているから泊まる家もあるまい。いかがしたものか思案の末、垂水に漢学の先生できておられた篠原先生が頭に浮かんだ。一つ行って相談してみようではないかと評議一決して菓子を買って手みやげとしてもって行った。幸い先生在宅で「これはようこそ参られた」と愛想よく迎えられたのは嬉しかった。然るにここは官軍の宿所になっていて表座敷には士官たちが酒を飲んでいるようであった。それと知った東、川上の両氏はたちまち憂鬱な顔色になられた。暫くすると表座敷から来いと言われたのでスワ、こそと両氏は逡巡して出るのを拒まれた。しかるに自分は「えけいあいむんな」(かまうもんか)と言って出て行った。この時、自分は彼の県庁で分捕った軍医服をきていたのである。それをあとで思い出す度に可笑しくてたまらない。けれどもその時は士官たちの目が特段見咎めもせず快く迎えて盃をさしたり、御馳走を与えたりそして戦争はいかがであったかなどと聞いたり話したりして面白かった。好い加減に引き下がって別室に導かれ、そこで久しぶりに娑婆の夢を結ぶ事になった。他の両氏はいっこうに安眠ができぬ様子であったがとうとう夜の明けぬうちに姿を隠された。自分は一人先生のお宅を辞して横岸木にきて見ると彼の両氏はその他の人びととともに早垂水船に乗り込んでおられた。さきに郷里を出発する時は勇ましかったが肥、豊、日、隅の野に転戦し風雨八カ月の艱難を経て何等報いらるるもの無くむなしく故山を望んで寂しい帰途につくのである。しかし死して帰らぬ者よりはるかに幾十倍の幸福と言わねばなるまい。生きて帰った姿を見る親たちの目には喜びの涙が一杯であった。