切目王子神社

切目王子神社

王子神社は国道220号線柊原小学校の海側にあります。江戸時代に書かれた垂城録によりますと薩摩半島にかって高貴な方の御寵姫であった母親と姫がひっそりと暮らしておりました。姫が11,2歳になりますと美しく気品にみち、夏も冬も白足袋をはいている事を妬んだ村の娘たちが訳があるのではとある日海に誘い足袋を脱がせました。なんと足の指が6本ありました。当時この村では負具者は船に乗せて流すきまりがありました。村役人の評議によりこの姫も刳舟に乗せ海に流されました.。下大隅(垂水)軽砂の沖で釣りをしていた漁師が刳舟に気付き引き寄せてみると美しい少女が眠っていました。浜に集まった村人たちは(よもや只人ではあるまい、大事にしなければ)と一軒の宮を造り元の住居にいた母親も村の代表が迎えにいき仲良く暮らしました。3年の月日が過ぎ一隻の大船がこの宮の浜に着き、都からお迎えがきたのです。村人達はこの宮居に遺る形見の品を集めて切目王子神社として祭ったといわれています。なおこの母親は枚聞(ひらきき)神社の祭神となられた御方なりともいい彼貴人とは天智天皇の御事なりととも言われています

切目王子神社の謂れ (柊原公民館資料より)

昔から天皇、公家などは何かあると伊勢神宮や熊野詣が盛んに行われたようです。その中でも熊野5大社の切目王子神社は2番目の格の高い神社だったようです。645年曽我蝦夷,入鹿の親子を中臣鎌足と一緒に滅ぼした大化の改新の立て役者中大兄皇子(のちの天智天皇)が寵愛した当時軽砂の出身大宮姫ではないか?という話が伝わっています。天智天皇に関する伝説は新城、志布志、開聞の枚聞神社には王子神社の伝説によく似た天智天皇の伝説があります。

 

切目王子神社-2 海の向こうは薩摩半島