宇喜多秀家公潜居地

権中納言宇喜多秀家公潜居地平野屋敷跡

関ケ原の戦いで敗れた西軍の5大老の一人宇喜多秀家は戦いの翌年1601年島津義弘を頼り山川港にたどり着いた。同じ西軍の島津家も領地保全に必死で秀家公を匿う余裕がなく、鶴丸城にはいれず、牛根の豪族平野氏に預けた。平野氏は平家の落人といわれ水軍の技術を活かしかなりの財をなしていた。多い時は100人程の家臣が集まり平野家では自分達の住まいの上屋敷を明け渡し、自分達は海辺の警護を兼ね下屋敷へ移った。

垂水市史料集「垂水の諸家略系図」の佐野家初代「初居ニ住伊豫国一、有ニ古記一、浮田家之家臣也,奉ニ仕忠仍公一」とある。史料によると宇喜多秀家公の家臣が島津に仕えたとあるがそのうちの一人ではないか?と思う。現在も佐野家の土地は垂水島津家麓集落内にある。

秀家公はここに2年3ヶ月潜居し、静かに書物など読まれ3キロ程離れた世居神社にお参りされたという。「うたたねの夢は牛根の里にさえ都忘れの菊は さきにけり」と歌も残されている。徳川家康の追及も厳しく、かといって島津家や前田家(秀家公の室豪姫は利家の3女)のてまえ、殺すことも出来ず最終的に は八丈島に流された。長男15歳、二男13歳は八丈島へ幼女冨利姫と豪姫は前田家の説得で前田家へ引き取られた。2年程前11月21日、この地を訪れた時 大きめの椿の葉にお供え物がしてあった。平野家では代々自分達が使った器ではお供え物はしないという口伝があるのだそうです.公がその後どうなったかはわからなかつ たが11月には毎年供養してきたのだという。明治2年本土に帰ってこられた子孫の方々とは交流がある。領主だった岡山県の商工会の皆さま、関係者の 方々とも交流している。平成23年は岡山桃太郎フェスタに垂水市長、商工会松永氏、市観光担当職員が参加し観光大使宇喜多秀家,豪姫の選考委員にも加わっ た。11月3日おはら祭りに来られたお二人は装束のまま、潜居地に小雨も気にすることなく手をあわされた。

H28年9月19日の台風16号でがけ崩れで屋敷跡は入れない