戦時中、海潟に造船所がありました。

 12月13日(日)協和地区公民館で「協和づくり策定委員会、町づくり委員会29名によるシンポジュウムが開催されました。

 自分達の地域をどの様にしたいか地域の皆で考え行動にうつす取り組みです。すでに大野地区、新城地区、水之上地区がそれぞれ地域おこしに成功し、全国表彰も受けています。

 協和地区も2年目を迎え、具体的に行動開始しました。まず自分達の地域の歴史を知る事が大切と70年前この地で輸送用の木造船が作られていた事は垂水市民にもあまり知られていません。その事実を語る人も年々いなくなります。

 今回は最後の証言者3人と長崎大学準教授井手弘人氏(かって本町にあった本屋の息子さん)が多くの資料を提供し説明して下さいました。

 M氏、88歳は当時18歳で多感な少年期に見た光景を昨日の事のように話されました。

 N氏 81歳は造船所の隣に住んでいた。地元民は強制的に農地を取り上げられ移転させられた。従業員は多い時で1000人ぐらいで、山手には外国からの労働者の「飯場」があった。

 造船技術は研修施設があった。7つの旅館と民家に7,8人ずつ宿泊していた。

 船は杉材で蒸す事でよく曲がった。「だんべ船(不格好、太っちょ)」と呼ばれていた。垂水で一番先に空襲にあっている。3月18日

 牛根出身M氏90歳この造船所で働いていた。空襲牛根方向から海潟へ向けて米軍が飛来し全焼した。

 1隻の造船期間は4ヶ月(30人~40人)女性も働いていた。

 炭焼き小屋があり、炭を燃やして杉板を曲げていた。

 進水した木造船は主に輸送船として呉か佐世保で台湾、中国のアルコール缶を運んだ。速力は8ノットぐらいで砂糖も運んだ。

 もう70年前こっやっでけわしえた(忘れた)といいながらも瀬角さんの優しい質問の仕方の閉ざしていた戦争の悲惨さが少しずつ溶けて溢れ出した感がありました。