垂水の諸家略系図 町田氏

町田姓は島津家3代太守久経の兄弟忠経の子忠光を氏租とし16代久徳の弟忠房が垂水町田租である。(山之口栄之氏調査集)

 初代忠房は初め入来町に移住し後命によって鹿児島に移住,永禄4年(1561年)垂水島津家初代忠将が廻で戦死、嫡男以久12歳の家老となし永禄8年肝付兼続叛き以久初陣(16歳)忠房従軍

 慶長2年以久に従い種子島へ移り同4年以久に従い垂水に移る

 2代忠寛 垂水島津家3代彰久の命により家老職 文禄元年(1592)朝鮮の役、以久に従い従軍同4年彰久戦死遺骸を奉し清水へ帰り礼祭、再び渡朝 慶長14年(1609)5代敏久に従い伏見に至り忠幸

 3代忠照 元和9年(1623)垂水島津家4代久信により誅される。(歴代町田家の墓ではなく本城伊地知家の菩提寺にひっそりと建っている。本家跡目騒動に巻き込まれた為)、久信、久敏2代の家老

 12代案山子氏 明治元年戊辰の役に従軍 明治2年諸候封士を奉還す 垂水17000石を奉還し一門家の称を廃し士族に編入更に家録1500石となる。屋敷跡は現在の垂水高校になっている。和田英作画伯は親戚関係にある。

 13代一平氏 案山子氏の長男で現在の東大農学部を卒業、垂水に温州ミカン栽培し現在の鹿屋農高を誘致した。昭和5年垂水汽船会社を設立垂水―鹿児島間の日帰りが可能となった。

 14代峻氏の弟四郎氏  垂水市教育長、4,5代市長を務められた。垂水には多くの町田姓の方々が何代もいらっしゃる。家系図も町田忠林を初代とする秀穂方、町田二次方、町田不二方、鶴次郎方,静助方、彰方などがある。

 町田忠林は垂水島津家初代忠将の家老として福山廻の戦い(1561)に従軍,忠将の戦死で家来50数名も殉死、2代目忠次も戦死した。屋敷が現在カトリック教会になっている。子孫は長崎にいらっしゃるらしい。