牛根エリア

垂水市北部を回るコースです

宇喜多秀家公潜居地

  • 歴史

 関ケ原の戦いで敗れた西軍の5大老の一人宇喜多秀家は戦いの翌年1601年島津義弘を頼り山川港にたどり着いた。同じ西軍の島津家も領地保全に必死で秀家公を匿う余裕がなく、鶴丸城にはいれず、牛根の豪族平野氏に預けた。平野氏は平家の落人といわれ水軍の技術を活かしかなりの財をなしていた。多い時は100人程の家臣が集まり平野家では自分達の住まいの上屋敷を明け渡し、自分達は海辺の警護を兼ね下屋敷へ移った。

垂水市史料集「垂水の諸家略系図」の佐野家初代「初居ニ住伊豫国一、有ニ古記一、浮田家之家臣也,奉ニ仕忠仍公一」とある。史料によると宇喜多秀家公の家臣が島津に仕えたとあるがそのうちの一人ではないか?と思う。現在も佐野家の土地は垂水島津家麓集落内にある。

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道の駅たるみず 湯っ足り館

  • グルメ
  • お土産
  • 絶景
  • 休憩
  • 温泉

 足湯に浸かりながら桜島を眺める。そんな癒しの空間がここにあります。レストランや特産品が所狭しと並ぶ物産館、湾奥を望む温泉。どれも極上です。レストランのおすすめメニューは、たるみず御膳です。

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居世神社(こせじんじゃ)

  • 歴史

 神社帳には欽明天皇の皇子である敏達天皇が祭神として書かれています。その関わりを示すとされる金箔で覆われた菊の御紋が、社殿の梁に飾られています。源氏に敗れた安徳天皇をお祭りしているという説もあります。また、関ヶ原で敗れた宇喜多秀家公が、毎日、屋敷から3kmの道のりを歩いてお参りし、牛根を去る際に、身の回り品を献上したと記録に残っています。

 居世(こせ)と読むが伊勢とも読める。平家は伊勢神宮を崇拝し権威を誇ってきたが、都を追われた身ゆえ、公に伊勢とはなのれなかったので隠語を用いたのではないか?と言われている。他にも都を偲ばせる地名が多く残っている。宮崎大路、東大路、中大路御所の尾,御前,おぜん原いつかは都へ帰れると信じて山深いこの地に名づけたのだろうと言われる。

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稲荷神社埋没鳥居

  • 歴史
  • 絶景

  国道22号線牛根麓居世神社後方500mの小高い山の頂上に祀ってある稲荷神社である。かってこの地は三州統一に着手した島津義久と大隅の豪族(肝付,伊地知、根爾)が戦った最後の激戦地だといわれています。肝付側の安楽備前の守が城を明け渡した時この戦で1000人余りの兵が亡くなったといわれています。その後地頭としてこの牛根郷に入った伊集院久道が義久の命で久冨木家のびわ山に島津の氏神である稲荷神社を創建し神田をあたえてこれを崇拝させたといわれている。、今から437年前(1575年)の事であるにもかかわらず、久冨木家では代々長男がこの神社を守ってきた。現在の哲氏で29代目だという。この久冨木家も薩摩の豪族渋谷一族祁答院氏につながるという。この稲荷神社の鳥居が大正3年の桜島大爆発の降灰で埋まったものです。

久冨木家には11面観音鏡の掛け仏がある。もとは池袋宗政が京御より勧請して奉納したものといわれている。何らかの事情で久冨木家に伝わっている。 

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安徳天皇陵(伝説の地)

  • 歴史

  現在 NHK大河ドラマ「平清盛}を放送していますが、ここ垂水も平家の落人伝説地が多く残っております。牛根麓は集落全体が落人の里と言われます。壇ノ浦で敗れた平家は全国各地へ逃れましたが九州へは1300人程だったと言われます。硫黄島へは300人程がたどり着いたが残りは九州の奥深い山にひっそりと暮らしたそうです。垂水牛根麓にも江戸中期まで落人である事はひた隠しごく限られた人々しか、婚姻関係も結ばず生活したそうです。そんな牛根の地に清盛の娘徳子と80代高倉天皇の皇子安徳天皇の陵と言われる(みささぎ)がある。全国20数か所存在するといわれる安徳帝の陵であるが情報の少ない時代に幼い安徳帝の悲劇にそれらしき高貴な稚児が村に漂着すると手厚くもてなし、その地で亡くなると末代まで大切に供養したのだろう。あくまでも伝説であるが文化年間(1804~1814)島津重豪が参拝され献灯されているものが残っている。

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造船所跡

  • 歴史

 19世紀半ば、薩摩藩主島津斉彬が秘密裏に洋式帆船を造船した場所です。跡地は現存していませんが、近くに造船所があります。

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磨崖仏(まがいぶつ)

  • 歴史

  牛根麓、山下造船所の向かい側(現在駐車場)の脇の小道を100m程山手にいくと鶏舎がある。となりのびわ畑を横切り左にシラスの崖(約10m)がみえてくる。ここに仏様が刻んである。太平洋戦争時軍事基地を構築するため土砂を採取する時偶然発見されたものである。この仏像は尼像である。旅僧が亡き妻の為に一大岩壁に仏像を彫刻し菩提を弔ったもの。この土地の妻が髪が抜けるので恥ずかしく外出できなくなつた。占いをしてもらったところ仏様が岩の下に埋まっておられる。早く掘りだせと夢をみた。そこで掘ってみたら磨崖仏がでてきた。夫婦は信心し花香を捧た。自然と髪も生え元どうりになったという。

 この磨崖仏の前に広がるびわ畑、田んぼは安政年間(1854~1858)島津斉彬公が幕府にかくれて西洋式の軍艦を建造したところです。