西南の役従軍記 出発前

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西南の役従軍記 出発前

 明治9年十月ごろ(旧暦)、今の小学校の長屋記念校舎で、私学校が始まった。鹿児島の私学校の分教場でしょうか。五人組みを作って入学せねばならぬという事であったから自分もそうして入学した。科目は剣術が主でほんの申し訳位に漢学があった。十二月二十四日(二月七、八日頃)になるとわれわれ少年にはわからなかったが、何となく世間が騒がしくなってきて我が分校生も蕃兵に出るようになった。浮雲急なりとでもいうのでしょう。

 愈々出発

 かくて十二月二十八日(二月十日)愈々出軍という事になった。今晩船手の下(旧垂水港桟橋辺りから出帆するのだから、みんなそこへ集合せよ、その合図には大砲を放つから)との事であった。自分はその日蕃兵に当たっていたが君も早く帰って用意をして浜に行け、そして帰る途中でこの事を大声で呼ばって人々に知らせよと幹部の人達から命ぜられ、そのとおりにして帰った。帰りつくともう大砲がドンと響いた。北は城山に南は上野の丘に反響して夜の空気を震撼し、凄愴の気漲って、心臓の鼓動盛んに高鳴るのであった。食事を終ると早速仕度をして親達と門出の盃を致し、おくれてはならじと急いで家を出た。この時自分は襦袢、股引の上に筒袖の袷を着、白木綿の兵児帯を締め洋服の上着を着草鞋脚絆の装束で大刀を一本腰にさしミニヒル銃を肩にしていた。頭には私学校帽をかぶっていたのである。 家を出ると先ず御軍神に参詣してそれから船手の下の浜へ出た。当時自分は十七才で他の人びとを大方十七、八才から二、三十ぐらいのところが多く、まれには四、五十才の老武者もあった。引率者は町田貢、林盛の両氏で総勢四百余人。これらの人数を運ぶ船は何十隻であったか、丸木船やその他の船は艫を並べて繋がれていた。そして船頭は各五,六人ずつ乗り組んだようである。自分がここに来た時はすでにたくさん集合していて見送り人や付添人等で黒山の群衆であった。誰であったか自分をみて「立山殿の稚児や、ドレ)と言いざま脇をひょいと抱えて船に乗せてくれた。それほど自分はまだ子供らしかったのだろう。

    旅費

 旅費は自弁ではないはずだけれども、入隊までの間の旅費とその後の小づかい銭の用意に多少の金額は必要とした。伊集院与輔氏の談であるが彼の兄籐五郎氏が従軍するので住宅の表の床の間八畳を切り離して売却し、代金二十五円を得てそれをもっていかれたと。又町田幾穂氏の談であるが彼の父実広氏旅費を借ろうと思い、かねて有副の聞こえある百姓数人を呼んで相談されたところ戦争に行く人に貸すのは返金に見こみが覚つからないから誰も応ずる色が見えない。再三口説いて見たけれど更に効がないので「ヨシ!しからば借らぬ」と激しい声をあげて憤然として座の右に置いていた刀を取り上げて立とうとされた。それを見た百姓の一人、斬られるかと思って後ずさりをしたとたん、框をこえて土間に仰向けにひっくりかえった。

    鹿児島着

 垂水の船は十時頃出帆して、夜半過ぎ鹿児島に着き、直ちに宿屋にあがったのである。宿屋は最初は掘の面の辺であったが、翌日は石灯籠通に変わり、さらにまた黒木殿屋敷(今の本願寺の所)に移った。この時までは町の人や在の人等も夫卒として連れてこられていて、その人達が賄いなどしてくれていたけれど夫卒は鹿児島からの志願者が多かったため、田舎からつれてきたのは帰される事になった。ところが皆大喜びであった。しかし中には非常に憤慨して強いて従軍を請う者もあったがやはり出発に際して皆帰された。