公家石

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 海潟漁港近くの和光保育園の庭前、海岸寄りに公家石があります。地元の人達も(えっ!それなんですか?)と逆に質問されるくらいです。文禄3年(1594年)近衛信軸公(のちに信尹)は後陽成天皇の勅勘により坊津に流されました。近衛公は藤原一族で道長以来代々摂政や関白をつとめるなど高位高官にのぼって朝廷の仕事についていました。藤原頼道から8代の兼経が近衛家をおこし弟兼平が鷹司家、同族の教実が九条家,良実が二条家、実経が一条家をおこし鎌倉時代5摂家がそろい一族の中から代々関白,摂政など高官の位に着きました。当然次の関白は信軸と噂されていたが、秀吉が天皇家に手をまわし、前代未聞の関白秀吉が誕生した。信軸は薩摩国坊津に流され2年程してやっと許され帰る途中ここで休み当時の弁天島が鎌倉の江ノ島に似ているといい江ノ島と呼ぶようになりました。江ノ島の後ろに見える桜島が富士山のようだという。富士にみまがう、桜島かな、確かにこの位置からみると、神奈川の鎌倉から見る江ノ島と富士山に似ているような・・・ここ下大隅は(垂水)は近衛家の荘園だった関係から島津と近衛家は近い関係にあった。

 

 平成14年1月追記

枕崎市の北川様の出された「近衛信輔公,配流のみち」の小冊子をいただいた。その中の文章で1582年織田信長が本能寺で横死した時いち早く天下を手に入れたのは(豊臣秀吉」だった。秀吉が征夷大将軍につくには源,平,籐、橘の血筋が必要だったが彼は水のみ百姓で元足利義昭に養子縁組をもちかけたが断られ,信輔公の父前久の猶子になり藤原姓を名乗ったその後当時絶家だった豊臣姓を継承し関白に就き政権を把握した。この時左大臣だった公は官位をすて朝鮮に渡りたいと勅願し天皇の怒りをかい薩摩坊津に流された。廻り~直接山川に行く予定だったが向かい風に遭い5月10日~18日まで垂水に逗留している。

 

この時福山の廻りの坂の所まで垂水島津家2代以久公が出迎えに来るとある。