新城島津家

  • 歴史

 新城島津家は寛永13年(1636)垂水島津家四代久信の二男久章を初代として創設されました。太守家久娘を室とし化粧料一千石をもらい祖母(新城様)の三千七百石をもって四千七百石で新城家が創設されました。家久は娘婿の久章に国家老や大番頭の重職に就かせ,義兄弟にあたる光久の信任も厚く、寛永16年光久の名代として将軍家へ年頭の挨拶の為江戸へ出発しましたが登城せず,家老達の必死の説得により将軍に拝謁しました。その後帰国を命じられ、谷山清泉寺で殺されました。新城島津家は一代にしてお家断絶となり50年後長子忠清に継がせました。13代久治まで続き明治2年私領を返還しました。その後は末川家を名乗り現在にいたっています。

新城島津家のあった新城麓には代々家老職をつとめた池田家や中村家など今も多くの家臣の末裔達が住み郷土史研究会をつくり月に一回勉強会をしている。会員60名と市内でも一番多い。

 

 歴史こぼれ話

 垂水島津家の二男家からは末川を名乗っているが全国各地にいらっしゃるようで二年前の三月神戸から末川を名乗る方が資料館に来られた。奄美出身ですが、自分のルーツが知りたくて2年程前から調べ、やっと垂水であることが分かりました。垂水道の駅で聞いたらここを紹介されました。新城末川家の現在当主の方のだされた資料を差し上げ、新城の墓、垂水島津家の墓と案内した。話によると祖先が新城から奄美の砂糖役人として行き、そこで土着したのだという。墓の前でひざまづき、長い事手を合わせ、祈っておられた。

 今年5月北海道北広島から薩州島津家の分家(矢柄家)の子孫の方が訪ねてこられた。図書館、牛根郷土史研究会と連携し、16代義久の娘、(おひら)の子忠栄が牛根の地頭をしていた頃(1649年)の墓跡の供養塔が見つかった。370年後の今も榊が供えらている。カメラに収められる手が震えていた。(こんなによくしていただいて・・・)と手を合わされた。案内している自分もこの瞬間に立ち会えてわが事のように嬉しい。