第六垂水丸慰霊碑

  • 歴史

昭和19年2月6日(日)9:50分垂水港を出港した垂水汽船第6垂水丸、122トンは乗客700人以上を乗せ転覆,沈没した。日本海難事故2番目という。鹿児島―垂水間を10,5往復していた垂水汽船も戦況が悪化するにつれ、燃料不足、船も相次いで軍に徴用され昭和18年には一日4往復になった。この日は西部18連隊の最後の面会日という噂も流れ、大隅各地の町村から戦場に行く前に一目会いたいと重箱に御馳走を手にした乗客が押し寄せた。当時乗船券の発売窓口にいたAさんの証言によると660枚までは覚えているがあとは乗船券が手に入らなかった人も桟橋めがけて走ったという。船長が危険を感じ出港を見合わせていると軍人が日本刀で脅し30分遅れで出港した。200m沖で方向転換しようとバランスを崩し転覆した。死者464人行方不明2人と当時の新聞は伝えている。太平洋戦争中で当時の鹿児島日報(南日本新聞の前身)の記事もわずかしかない。遺族名簿もなく昭和51年岩崎産業初代与八郎氏が33回忌法要を行い、現場近くに慰霊碑を建立してから33年たった。諸事情により慰霊碑も近くの草むらに放置され、遺族は命日が来るたびになんとかしたいと願った。

 戦争とメデェアの研究をする東海大の水島教授が平成6年9月事故の事を知り生存者や遺族、救助にあたった人を取材し、地元もこの悲劇をきちんと後世に伝えようと33年ぶりに慰霊祭を計画し現場海域を望む場所に移設台座も新調した。翌年新たに判明した死者547名の銘記碑も建立し当時の遺品や写真なども文行館に展示している。遺族の高齢化が進み、家族にも伝えていない人も多い。昨年から垂水中央中学校が文化祭の劇にとりいれたり、市内小学校の地域学習などで語りついでいる。当時6年生だった協和小学校のNさんをモデルに書かれた『雲の文字』の朗読もしている。