垂水文行館

  • 歴史

 垂水島津家10代貴澄公は鹿児島の造士館に遅れること3年、安永5年(1776年)垂水に文行館を設立した。(垂水高校西側) 貴澄公は文教の振興を図るため、学校の設備を整え教師に讃岐(香川県)の儒学者乾(いぬい)官太(徽猷)きゅうや高崎の市川匡(鶴鳴)を呼んで文行館の経営にあたらせ、鹿児島からも向井友章、黒田為国の学者をまねいた。文行館は明治まで続き多くの人材を育成した。家老の伊集院兼凱、伊地知季虎、和田英作の父秀豊を文行館で学んだ。現在NPO法人まちづくりたるみず歴史資料文行館は垂水島津家に関わりのある資料を展示している。大半は個人の家で代々大切に保存されていた品物です。なかでも垂水島津家の御用商人だった川畑家、川井田家の品物は垂水島津家15代貴徳公の遺族から訳があり預かったものと伝えられている。幕末の豪商とはいえ商人が使用した品とは思えない狩野探信作の屏風(本物か偽物かは分からない)、高崎正風の学則の原本と伝わる品、川畑家には明治22年久光公の見舞いに来鹿した高崎正風公が宿泊なさり、今も掛け軸が残っている.。貴徳公も病気がちだったため見舞いと正風が設立した垂水小学校の視察のため訪れた。貴徳公は明治25年33歳で亡くなり16代貴暢公はわずか5歳だったため、川畑、川井田家が援助したという。浜御殿という垂水島津家の別邸跡は川畑家が所有している。

 

 現在の文行館とは・・・

 垂水市には歴史資料館がない。平成20年10月当時商工会会長の川井田孜氏が「さかや」の空き店舗を利用しNPO法人まちづくりたるみずをたちあげ、自宅の蔵にあった垂水ゆかりの品々、友人(川畑家)に残る垂水島津家の品々を展示した。この両家、垂水島津家の御用商人として栄え、幕末から明治にかけて貧窮する武士の生活を援助した。その時質草として預かった品も多い。21年2月は第6垂水丸沈没慰霊祭、22年慰霊碑銘記碑建立など地域の薄れゆく歴史などの掘起しの活動をしている。24年度7月から論語講座(10回)、子供向け百人一首も開催している。

 今、調査しているのは垂水で食べられていた(幻の郷土料理)を各地域ごとに地元の80代ぐらいの方々に料理していただいている。(粟んぜんざい、とんきゅう汁、大根そば、23夜まっちゃげだご、本城麺残、のいのまかね)昭和20年代頃までしか食べられていないようです。知る人も少なくなりつつある食べ物です。