新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」(7)

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 南州翁をしのんで 留山ハマ

留山ハマは明治3年中村清則の3女として生まれ留山喜冶司に嫁いだ。父清則は庄屋で人徳があり南州翁の崇拝家であった。明治8年の晩秋清則,ハマ親子は南州翁が狩りを終えてお帰りの途中麓の馬場で出会い親子は心をこめて挨拶し狩りの御苦労をねぎらった。この時ハマは数え年の6歳で南州翁に丁寧にお辞儀申し上げた。南州翁は残りのかるかん饅頭をとりだし「良い子じゃ、むぜ子じゃ」というて与えられた。ハマは無遠慮に「これより三角菓子がいい」といった。ハマはかるかんを初めて見たがこの頃子供達が一番好きな菓子は三角菓子であった。南州翁は「こらしもた三角菓子がないから買って食べなさい」10銭を与えられたのでハマは嬉しくなりお礼を申し上げた。南州翁は父清則に向かって「日本では女子、百姓の教育を無視してきたが今後は女子、百姓をはじめ日本人は全員日本帝国民として四民平等の原則ですべての国民が教育を受けることになる。ハマちゃんは良い女子だから郷校に入学して教育を身につけ立派な婦人になるように」と言われた。ハマもこの話をしっかりと聞いていた。

 西南戦争で新城郷校は休校となった。明治11年春村の有志の計らいで郷校松尾小学校を開校する事とし戦後復興のため教育産業の振興がたかまったので同年四月郷校の開校式を挙げた。この年ハマは数え9歳満7歳で郷校女子として入学が許された。郷校に女子が入学したのはこれが初めてであった。女子児童は袴を着ることとしてハマは父親の袴を改良して着用男子に負けない立派な成績で毎年優良で卒業成人し台湾総督府の役人留山喜治司と結婚し長生きした。

 我が国の教育は明治、大正、昭和と代が代わるにつれ世界で類を見ない教育国となった。南州翁は大将元帥であったが教育にも極めて高い見識をもち我が国教育立国の基礎に貢献された事は大きな偉業で私も南州翁のおかげで郷校を卒業出来て感謝に堪えない

この稿は筆者(永田時吉氏)が直接留山ハマ様に聞いたまま記録した。ハマ様は村人にも事あるごとに南州翁の人徳を語り継がれていた。

 

 南州翁を偲びて  川畑時光

 諏訪の川畑長次郎は病身であったが草鞋作りの名人であった。南州翁が狩りに行かれる時は何時も草鞋脚絆であった。その草鞋は長次郎の作ったものを常用された。長次郎も翁よりご注文をいただき有り難く感謝して誠意をこめて草鞋を作った。翁は草鞋が大きいのでと2足分を支払われたが1足分でよいと半分をお返しした。すると「長どんおはんが作いやい草鞋はまこてはっごこちがよかで2足分の値打ちがござんさ、取っておっきゃい」と2足分を払われた長次郎は私が私が病身で憐れんでご厚意といつも感謝していた。

 翁は鹿児島に帰省される際は何時も長次郎の草鞋を5足分もって帰られた。それで長次郎は死ぬまで南州翁の偉大な人間味、崇高な人徳に感謝していた。