新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城(6)

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 南州翁を偲んで     中村思無弥

 中村思無弥は嘉永5年11月21日中村平左衛門清徳の三男として生まれた。松尾学館を卒え、留学生として藩校に入学して漢学を修め明治2年優等で卒業、新城松尾学館教師兼新城常備隊軍務局書記となり同4年郷校松尾小学校教師となる。

 明治8年1月私学校新城分校設立して入隊、分隊長に任ぜられ明治8年頃狩滞在中の南州翁は校長安田為僖の請により松尾小学校を視察し次の一説を話された。

 政の大體は文を興し、武を振るい、農を励ますの三にありその他百般の事務は皆このものを助くるものである。と又忠孝仁愛教化の道は政事の大体にして道は天地自然の物なりと教えられた。思無弥は父清徳が大の西郷崇拝家で父の話を折々聞いていたが南州翁に直接教えられた事は初めてで大いに感動し忠孝仁愛を基本とし全身全霊で打ち込むことにした。明治10年2月新城私学校徒は南州翁上京につき護衛の為出兵する事の陣触れが発令された。中村家では長男清操、二男秋登、三男思無弥の3人が出征する事になり清操は新城隊副隊長、秋登、思無弥は半隊長に任命された。兄弟3人は日本をよくするため南州翁が明治政府の中心となり天皇陛下の政治を輔翼(ほよく)し奉る体制を造るべきで吾々はその事の実現を期して出兵の任務を全うすると誓い合った。

 出征に対し母親ナオは汝等の父清徳は戊辰の戦争に出兵しその目的を達し、御親兵隊に第1回入隊を果たして忠君」愛国の一念に貫徹し、南州翁を心から崇拝して日本政府は南州翁を中心にせねばと口癖に昨年他界された。今後汝等3人が揃って南州翁の従い、上京しその目的を達成せんとす。父の意志を汲み目的達成に全力を注げと門出の激励をされた。兄弟3人は勇んで出発した。2月21日熊本鎮台兵と私学校党が衝突して西南戦争が起こった。新城隊は始め熊本城攻撃に配置され2月末田原坂第一戦部隊に転戦した。田原坂は連日激戦が続き、官軍は猛烈な大砲小銃の弾丸を浴びせた。私学校徒は弾がなく連日連夜斬込隊を繰り出した。3月4日長兄清操は斬込隊長として勇敢に敵陣に突っ込み官軍の肝をつぶしたが数発の弾丸をうけて戦死した。清操は剣道の達人であった。3月12日次兄秋登が斬込隊長で奮戦した。この時官軍は斬込隊を警戒して多数の歩兵銃隊を備えていたが新城の斬込隊は官軍の隊中に突っ込み大きな打撃を与えた。この日斬込隊員は鶴田重則、財部清昌が戦死、秋登も足の貫通、腹部、胸部、頭部に数発が命中して勇敢な戦死を遂げた。3月13日官軍は新城隊めがけて雨の如く砲火を浴びせた。新城隊は分隊長中村清操、中津野武則、池田秋登高級幹部が戦死していたので思無弥は分隊長として新城隊の指揮をとって官軍に強く抗戦した。官軍兵士は鉄砲を打つ時身を隠して撃ったが新城隊は一発一中、百発百中を目指して膝射ちで撃った。官軍は弾丸に不自由はしなかったが新城隊は極めて少ない弾丸が配当されたので弾丸は何より大事に考えた。この日思無弥は陣頭膝射ちで敵を狙い念いりに小銃を撃った。この時池田秋遊は分隊長危ないと足を引いて伏せさせたトタン官軍の弾が頭に当たり、失神し病院に送られた。弾は中心部を外れやがて回復に向かい帰郷して自宅療養が命ぜられた。弾を受けた時池田秋遊が足を引かなければ直死するところであったが人の運命は不可解なものと思い、天は我に何かをなさしむところありと考え死んだつもりで今後全力を尽くしたいと誓った。家に帰ると母親は戦に敗れ、目的を果たさずおめおめと帰るとは何事か、長兄清操、次兄秋登は勇敢に戦死した。中村家の家名にかけても家に帰る事は許されないと大した剣幕であった。思無弥は兄清操も秋登も戦死の際し思無弥を呼び寄せ、一人だけは生き残り家を守り郷に尽くせと遺言した旨申したが母の機嫌は直らなかった。おじの海江田貞一の仲介でやっと納得され、家で静養し健体となった。思無弥は南州翁を政府の中心人物となす目的で戦い、敗戦して南州翁に申し訳ないと考えていたところ9月24日南州翁は自害され薩軍は全面敗戦が決定し終戦となった。中村家は父清徳を始め一家一族南州翁を尊敬していたので祭壇を設けご冥福をいのり御遺徳を偲び敗戦に至りし無力を謝罪した。思無弥は賊徒の罪も免罪となり南州翁の遺訓忠君愛国の精神に生きるため警視庁に奉職し、幹部訓練中戦後復興を旨とする戸長を要請されたが志を曲げるわけにはいかないと断ったが母が戸長を引き受けよとの事でやむなく退官して明治12年2月1日第4代戸長に就任し戦後復興に全力を尽くしその後花岡戸長、新城初代村長、同33年肝付群役所課長となり20ヶ年郡政にあたり大隅の開発に尽くし地方自治の神様と慕われ、退官し、大正7年3月第10代村長在職中68歳で亡くなった。思無弥は約50年公職を歴任し南州翁遺訓の敬天愛人の道を基本とし文を興し、武を振るい、農を励ますの理念のもと、まず明治15年戸長在職中に西南戦争戦死者24名の招魂碑を建てその霊を祭り、学校を興し育英制度を設け産業教育の振興を実践した。又思無弥は漢詩においては新聞社の選者として県下最高の地位にあった。(以上は思無弥翁及びその側近の方々に聞く)