新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」(5)

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 南州翁を偲んで  中園休次郎

 中村休次郎は弘化3年1月10日新城諏訪中園畩次郎の長男に生まれ家業の農業を営んだ。幼少のころから狩りが好きであったが鉄砲を買う事が出来ずに罠等を利用して狩りをおこなっていたがある日草刈り中兎が近くから飛び出したので鎌を投げたところうまく命中した。これを機に新城の山野に多い兎の習性を真剣に研究し兎は木棒でとれるとの自信をえたので暇さえあれば仮装兎を作り木棒を投げて取る練習を行い山野の地勢と兎の行動をよくきわめ、ついには木棒により独特の兎取り狩法をあみだし、兎が現われるたび木棒を投げ百発百中のメ命中率に自信をもつ段j階に到達、兎狩りの名人と言われた。明治7年戸長中村清徳は南州翁狩場の案内役として休次郎を推挙した。休次郎は百姓の倅の身分で大西郷先生のお供が出来る事に感激推薦を有り難く受けた。休次郎が初めて南州翁に御伴役の挨拶に参上した時、かんげきのあまり土下座し涙を流し有り難い事でございもすと申し上げると南州翁は「休どん、明治は四民平等じゃ、そげんかたくならんでおおらかにないやい、おいどんもかいも育ちじやが、新城に狩りにきもしたでよろしゅたのんもんど、今日から山を案内しやったもんせ」と申されたので休次郎は南州翁のご期待に副うよう天地神明に誓った。休次郎が案内するするところ必ず兎が現われそれを翁が撃たれたが時折打ちそこないがあると休次郎は木棒一本で見事撃ちとめた。翁は休次郎の木棒狩法の名人芸に驚嘆され『休どん、おはんがぼっとはおいどんが鉄砲よか優れ、おはんが腕はおいがとよっか上手じゃ、おいどんは西郷じゃが休どんな大西郷どんじゃ』と申され狩仲間を笑わされた。以後休次郎を西郷どんと村人が呼ぶようになった。休次郎も西郷どんと称されるとご機嫌で南州翁から賜った名前じゃと誇りにして南州翁を心から尊敬申し上げた。明治10年9月24日南州翁に戦死の報が伝わると毎年命日と定め冥福を祈った。中園家では南州翁の形見として鹿の角と石と狩棒が家宝として大事にされた。ある日狩場での休憩の際、南州翁はかるかんを2個ずつ間食に各人に与え、この菓子は殿さま菓子であったが明治となって国民全員が食える菓子となった。今後は殿さまはなく、四民平等で優秀な人物が上にたつ世の中になるといわれた。休次郎はもったいないと思い食わずにつわの葉に包んでふところに入れたところ、翁はなぜ食わないかと尋ねられた。休次郎は恐縮して大変上等な菓子なので家に持参して先祖の霊前に供えたいと返事した。翁はお供え用は後で届けるから食べよといわれ有り難く頂いた。翁はその夜の内に20個入りの箱入りのかるかんが届き休次郎一家は感謝して霊前に供えた。南州翁は狩でとれた大半の獲物は村人に何気なく与えられ無欲恬淡な性格は人真似できない尊さがあった。休次郎も大正13年まで兎千頭を射とめて供養した。千頭の内、四割は南州翁に習い無償で村人に与えた。兎をいただいた川畑政夫が休次郎は兎取りの名人で心も西郷翁によく似ていたと語っている。休次郎は大正13年78歳で病死したが始終一貫南州翁を尊敬していたという。

 南州翁を偲んで   榎屋興助

 榎屋興助は安政2年4月1日榎屋景元の3男として生まれた。父景元は新城島津家敷根郷湊村蔵屋敷役人として奉公中、明治2年8月新城島津家私領奉還、新城家廃止となり明治3年1月1日一家そろって新城に引き上げ新城村諏訪に居住する事になった。時に興助15歳で新城常備隊に入隊し、銃隊兵士として訓練を受ける事になった。興助は忠実で強健模範隊員で特に鉄砲撃ちの名人であった。明治5年常備隊が解散され半農半漁として家事を手伝っていたが同7年戸長中村清徳の推薦で南州翁狩伴役として南州翁の狩に仕える事になった。明治8年末の頃南州翁に御伴して明ヶ谷で猪狩りがあった。この時興助は西側の要所に立った。南州翁が撃ち当てた大猪はいちもくさんに興助の方向に突進してきた。猪の矢あたりは危険千万なりと知っていた興助は要領よく我が身をかわした。この日も数人の御伴がそれぞれの要所、要所に配置されていた。これらの御伴は興助が仕留めるものと期待していたが意外にも身を隠して難を避けた態度は卑怯千万なりとして興助を攻撃した。興助は撃たれた猪は当然死ぬるもので危険をおかしてまで仕留める必要なしとして難を避けたが仲間から非難され不覚を恥じ、武士の面目にかかわり申し訳ないと考え南州翁に土下座してお詫びし、死をもって謝罪しようとした。翁は興助の心情を汲み取り「皆さんよく聞いて下さい。興助どんは決して卑怯者ではない。大胆者で落ち着きがよい猪の矢あたりは必ず死ぬものであるが当時はあばれまわり、昔から猪の矢あたりというて危険千万の代表とされておる。猪の矢あたりは興助どんの如く身を隠して難を避ける戦法が良策でこれを狸戦法と言う。と諭された。以後興助に仲間は狸どんと呼び、興助もlこれは南州翁の命名なりとして心密に名誉とした。この事ありて興助は南州翁を心から尊敬申し上げ何事にも誠意をもって尽くした。明治8年私学校新城分校が創立され、興助は入隊して特意の銃操訓練で優秀だった。又剣道も得意だった。同10年2月4日南州翁上京につき私学校徒は全員護衛の任務につき出兵すると陣触れが発令された。興助は出兵の用意を整え、いの一番に出陣して南州翁に忠誠を誓った。2月24日熊本川尻で熊本鎮台と私学校千発隊が衝突して西南戦争が起こり9月24日南州翁城山で自害されて終戦となった。この間興助は得意の鉄砲撃ちで応戦したが弾丸が思うように届かず敗戦に終わった。