新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」(4)

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南州翁を偲びて    高千穂  細竜 豊(明治33年生まれ)

 私の家は祖父権八が新城島津家の二男に生まれ細竜の姓を賜り分家として鹿児島市に移り島津本家の家臣として平野町に住んでいた。祖父権八は南州翁と斉彬公時代から知り合い、親しく交友していたが明治10年2月12日鹿児島平野町で南州翁と出会い南州翁が申されるには実は親しくお伺い申し上げたき所、慈許大変多忙で御無沙汰申し恐縮至極に存じもす。実は近日東京に参上政府に尋問の儀之有私学校党等兵一万余が護衛する事と相成っておりもす。何やかと色々御世話様にに相成申しあげもすが万々よろしく御頼み申し上げもすと挨拶された。それから2月15日護衛兵1番隊、2番隊2月16日3.4番隊、2月17日5番隊包隊軽重が鹿児島を出発し南州翁は親兵50人に護られ17日出発された。祖父は毎日出兵の世話をされ17日は南州翁に親しく会われ翁の健勝武運長久を祈って激励の挨拶をされた。がこれが南州翁との今生の生別死別となった。9月24日南州翁自害城山落城を知るや祖母は涙を流し誠に残念な事となった。天下の大偉人を失ったとねんごろに神燈を供え南州翁及び兵士の冥福を祈られた。祖父は私どもに南州翁と平野町で出った時の翁の面影、出兵された時の翁の相と想いを折々話し天下最大最高の人物であったと始終敬意の意を捧げていた。父も私も祖父の意を体し南州翁を心から尊敬し出鹿の折は翁の墓参りをしてご冥福をお祈り申し上げる。

 南州翁を偲びて   鹿屋駒之助

 鹿屋駒之助は嘉永5年1月11日新城大浜、鹿屋友八の長男として出生、森の桑波田塾に学び明治2年新城常備隊銃隊兵士となり射撃の成績は隊中第1位であった。常備隊隊長中村清徳のすすめで南州翁狩りの御伴役を務め駒どんの愛称で南州翁のお気に入りであった。駒どんは狩りが飯より好きで特に猪狩りが得意であった。猪の習性、体質、居場所ならびに山林一帯の地勢等絶えず熱心に研究し駒どんが行くところ必ず猪が現われた。猪は必ず射ちとめその狩技はまさしく名人級と言われた。南州翁も駒どんの名人級を認められ、狩りにお出かけの際は「駒どん今日はいけんごあんどかい」ともうさるれば駒どんは自信をもって「今日は取れもす」と返事しこれが狩出の挨拶でもあった。駒どんが狩場を案内して南州翁に猪射場を示して猪はこの方向から現われ彼の方向に進むと予告申し上げると予言どうり猪が現われ翁が一発射たれると必ず命中したので翁も駒どんは日本一の名人じゃと称賛された。駒どんは日本一の偉人南州翁の狩伴役に選ばれた事を何よりの誇りと考えて、誠意をもってその役目を尽くし、又南州翁を心から尊敬申しあげた。明治10年西南の役には進んで出兵、新城隊銃兵として薩軍につき戦中も機をみて猪を射捕り南州翁に献上、あるいは新城隊兵士に野猪料理をもって慰労並びに士気振興を図り戦中は得意の射撃で官軍を悩ませたが戦い半ば頃から弾がきれ、無念ながら日本刀で戦い抜群の戦功を発揮したが戦い敗れてむなしく帰省した。戦いすんで南州翁が城山の露と消え給うと聞き数日は飯も食わず泣いて翁の遺徳を偲び供養の誠を捧げた。戦後は農耕に従事して暇々を計らい戦中使用した種子島銃で猪狩にいそしみ、日清戦争頃99頭の猪捕りの記録を作り猪の供養を兼ね猪祭りを行い記念に明ヶ谷に狩神の石塔を建てた。明治末期に200頭目の記録を更新、赤松には狩神の石塔を建てたこの狩神は2柱共現存しておるが村人は山神と称している。残念な事に種子島銃は大事に保存されていたが終戦後米軍の司令で取り上げられ焼捨となった。日露戦争後大勲位功1級伯爵樺山海軍大将は南州翁に習い狩りを楽しみ、新城の山野を目指して狩りに来た。狩りの案内役として駒どんが選ばれ狩宿は駒どん宅とした。大将は駒どんに案内されて滞在中毎日猪狩りに出かけ南州翁同様の狩法をされたが駒どんが案内する所必ず猪が現われた。イノシシは初め大将が撃たれ二発目を駒どんが撃って仕留めた時折矢あたりのまま逃げる猪もあった。駒どんはほおっておけばよかといわれ撃ちとめた場所で猪の毛を調べ家に帰り、長男の軍司に命じ時間と場所を示し猪が倒れて折るはっじゃから取りに行け、今日は二人いけ、今日は一人でよかと下知されたが大方示された通りで子供達も父の達人ぶりに驚いていた。南州翁によって日本一の猪取りとほめられた駒どんに樺山大将は『狩りをするなら新城の駒よ獣みたなら逃がさなせん』と歌を作って下さった。この歌を書いてくださったので駒どんは家宝として住宅の表の掛けて毎日仰ぎ家族諸共大将の御遺徳を偲ばれた。今長孫、兼雄が大事の保存している。駒どんは明治の中頃赤松谷2町余の官有地を払下げをうけ数年余の歳月を投じ田地一町二反、畑地三反の開墾を完成し山小屋を建て農耕傍ら狩りを楽しんだ。この田畑は今長孫兼雄等孫達が遺産として大事に耕作している。南州翁は子孫の為に美田を買わずとうたわれたが駒どんは子孫の為に美田を開拓した。南州翁は日本の発展の為北海道をはじめ全国の開拓の重要性を強調された。この事を狩りの間々に駒どんは翁のよもやま話に聞いたので南州翁の教えにそい赤松谷開拓事業に精魂を打ち込んだと言う。