新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」(3)

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 南州翁を偲んで     大津シモ

 大津シモは慶応2年8月10日上田親豊の次女として生まれ成人して大津吉次の妻となる。幼女の頃実家上田親豊の家に西郷南州翁が度々狩りに来て御泊りになったので南州翁をよく覚えて居ると次のように話された。私は10歳前後で世の中の事は何にもわからない頃であった。西郷様は犬を数匹連れて絣の着物に兵児帯を締めて体と目ん玉が人より特に御大きく堂々たる体格のお方であった。母が鹿児島の岩元家からきていたので伯父の岩元市之助がいつもお供してきた。鹿児島からお出での折は何時も珍しい物をお土産に持ってきてくださりそれが何より楽しみであった。ある日私に何が一番好物かとお聞きになり私は三角菓子だとご返事申し上げたら直ぐ買って下さった。その頃村では三角菓子が最上のお菓子であった。又翁は近所近辺の子供達にも折々三角菓子を与え、お利口な子供には又やるよと申しておられた。父親豊、母マスは南州翁がきてお泊まり遊ばす事を大変喜んで何よりに名誉と考え、とても大事なお役様で日本一の偉人だから朝晩身だしなみをしてご挨拶申し上げよ、家の内外等常に綺麗にせよともうしていた。母はざっくばらんに「西郷さん、今日はないが良かな」と尋ね賄いに誠意をささげていた。翁は米に芋を交混ぜたご飯がお好きで又おそばが好物であった。父は農漁業を営んでいたので自家用米は生産していたが村で一番良質米は木場田のものであるというて木場米をかっておいた。芋は小谷の仕明地焼畑芋がおいしいとの事でそれを買い入れて差し上げていたので新城の飯はうまかと申され、又父はおいしいそばを作るため山いも掘りを連れて良質の山いもを掘り、そばも焼畑づくりのそばを作り鯛のひぼかしのダシで作ったかけ汁にゴマや山椒の実小ミカンの皮を交ぜた幸香とせんもとのきざみをひねものとして差し上げると「とてもおいしかもいっぺどま気張っ食おかい」と申され数杯召しあがり「新城にくるのが楽しみごあんさ」とごきげんのようであった。私は村でも世の中でも戸長様が一番偉い人だと思っていたところ翁の滞在中新城戸長安田為僖、元戸長中村清徳その他麓の旦那方垂水の戸長町田案山子外旦那方いっぱいかわるがわるおいでになって翁に鄭重なご機嫌伺いをされるので翁はとても偉い人だと子供心に感じていた。翁は又朝晩お茶飲みが好きで父は鹿屋郷之原から良茶を買い入れていた。私は折々ご飯やお茶の給仕も務めたが田舎娘が世界の偉人の給仕が出来た事を今でも大変光栄に感じている。お客様の中には翁に揮毫を求められる方もあって、時折翁は大きな筆で四尺ぐらいの紙に清書されていた。私の実家も二幅の掛け軸を書いていただき父は家宝として大事にしていたが戦後行方不明になり残念に思う。又翁がお泊りの時お使いになった茶碗飯椀、お膳、お箸などゆかりの道具も父は大事にしていたが実家が昭和20年8月5日の米軍の直撃弾を受け、全焼した。ある日翁は私に今後の日本は教育が重視されてすべての女子が学校に行く事になる。それで読書算をお父様に習えと申された。その頃女子に教育は無用の長物とされていたが段々翁の申されたとうりになってきた。私の父母は南州翁を神様同様に考えて西南戦争には一族郎党老いも若きも新城隊兵士として西郷軍に付き奮戦された。戦い敗れて南州翁が城山で戦死されたときは数日ろくろく飯も食べずに泣いて供養を務め、父母生存中は毎年9月24日の忌日には祭壇を設け供養の法事を捧げ翁のご冥福をお祈り申し上げ御遺徳を偲んだ。私も又父母の意を体し供養を続け供養を続け毎日南州翁の遺徳を偲んでいるが幼き頃のお姿が目前に浮かんで涙が湧き出る。翁は日常私をシモチャンとよんでおられ終始愛情を注いで下さった。明治10年2月4日南州翁は根占から鹿児島へお帰りの途中ちょっと立ち寄られた。それが私共と今生の別れとなった。当時のお姿が今も目にかかっておる。それから間もなく陣触れが出た事も少し覚えている。