新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」(2)

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南州翁を偲びて  上田武博

 上田武博は明治45年5月5日、上田寿助の長男として生まれる。母はミネ、祖父は親豊、祖母はマスと言う。祖母マスは鹿児島市呉服町岩元善次郎の2女で嘉永5年3月10日生まれで祖母の長兄は岩元市之助と言う。武博は昭和2年垂水高等科3年生、数え年17歳の夏休みの時西郷南州翁が我が家を狩宿として度々お泊りになった事につき祖母マス、当時77歳によく事情をきいて詳細に記録して大事に保管していたが昭和20年8月5日米空軍の直撃弾を受け我が家は全焼してしまった。その内容の大意は次のようなものであった。西郷家と岩元家は古い付き合いで兄市之助は南州翁に従い戊辰戦争に出兵、常備隊平士、私学校平士となって南州翁を心から尊敬していた。明治6年末征韓論に敗れた南州翁は下野、鹿児島に帰り、心身を鍛練する事も考えひまさえあれば県下各地で狩りを楽しまれた。市之助は翁の希望で狩りの伴人を務めた。同7年市之助は南州翁を案内して新城で狩りをする事として妹マスの家を訪れた。この事はすぐ新城内に伝わり前戸長中村清徳、現戸長安田為僖など有志の面々は直ちに南州翁に敬意を表しご機嫌伺われた。翁は感謝の意を表し狩りにきたので万々よろしく頼むと挨拶された。上田家では日本一偉人来客を喜び一家一族挙げて歓迎申し上げた。この事が南州翁が初めて新城においでになり上田家を狩宿とされた起源で明治7年立春のころであった。この時翁は絣の木綿着に脇差をさし、猟犬を数匹連れて従者と市之助がお供してきた。マスは幼き頃から翁を知っていたが親豊は初めてで夫婦は揃って維新の偉業、王政復興の実現、版籍奉還、廃藩置県等一連の翁の偉大なる功績に敬意を表し、田舎でつまらない所で恐縮至極に存じ上げるがゆっくり新城の狩りを楽しんでいただきたいと心から挨拶をした。翁は「いやいや維新の手柄はわしがしたのではない、日本国民の希望で国民があげた手柄で新城の人びともよく協力して下さった。市之助どんが新城は猪が多いから狩にいこうと誘い妹マスもいるとの事でやってきもした。万事よろしくたのみもす。皆元気で何よりごあす。私どもの食事など家族同然として扱ってくだされ」と申された。翁は身体が大きく目玉が光堂々たる偉人であるが平民的で少しも威張らずあっさりされた人柄に親豊は感心した。翁が新城で狩りをされるとの事で元戸長中村清徳は新城の狩りの名人鹿屋駒之助、兎捕りの名人中村休次郎、鉄砲撃ちの名人榎屋与助の3人を選び御伴役勢子に推せんされいよいよ第1回目の猪狩りが明ケ谷で始まった。一行が明ケ谷に入ると10頭ぐらいの猪の集団に出会った。翁は一番大きな猪を狙い撃ち弾丸見事に命中した。同時に駒之助の撃った弾も命中した。撃たれた猪はその日のうちに捜し大きな成果を上げた。翁の撃った猪は10貫目、駒之助は8貫目位のもので翁は一頭を勢子一同に分け一頭を持参して上田家一族及び中村清徳等有志に贈られた。初回の猪狩りに凱歌をあげた翁は聞きしにまさる新城の狩りに大きな興味をもち、以後度々訪れ新城と鹿児島の往復は新城の仕立て舟を使用される事が多く、仕立て舟は四挺櫓で新城の若者が従事した。翁は従業員には普通の賃金より5割高を払われ従業員はおおいに喜んだ。翁が鹿児島からおいでの時は必ずおいしい土産をもって「親豊どんマスどんまたきもした」とあっさりしたあいさつをされた。明治7年の秋の末、旧暦9月15日前後は好天が続いたので親豊は翁を烏賊引きにお誘いした。翁が小舟に乗ると舟が深く沈んだので翁は「おいどんが乗ると舟も難儀しもんど、しづましもはんか」と大笑いされた。この晩は2時間ぐらいで数匹の烏賊を上げられ、たので大変ご機嫌であった。親豊は8匹引き揚げたので海では親豊どんにはかねもはんと親豊の烏賊引きの名人ぶりを称賛された。翁は新城の山で狩り、海で烏賊引きこれ天下一品なりと申され折々烏賊引きにも出掛けられた。南州翁は狩中従者と同じ生活であった。起居は親豊方の表の間で早寝早起の習わしで朝茶を好んだ親豊は鹿屋郷之原産の良茶を備えて差し上げた。食事は家族同様のものでよいとされたが味噌汁がすきで鯛のひぼかしのダシで手作りの味噌に青物を入れると美味いと喜ばれた飯は米に甘藷を入れたものを好まれた。時折そばを作ってあげると大変喜ばれた。狩には昼飯としてにぎりが普通であった。マスは木場の田の米が良質であると知り木場米を備えて飯を作りにぎりは3個ずつ梅干しを入れて差し上げたが翁はマスどんの握り飯はうんまかとご機嫌だった。翁は又野菜類の煮しめがお好きであった。サトイモ、大根、ニンジン昆布、揚げト―フ、こんにゃく類を鯛のひぼかしで煮つけて差し上げると大変喜ばれた。翁が愛用された火鉢、お膳、飯椀、お皿類は上田家の家宝として大事に保存されていたが米軍機の直撃弾で焼失)した。翁はお風呂も大好きで毎晩わかしてあげた。風呂も米軍の弾で焼失した。翁が狩においでになると大小何かの獲物を捕って御帰りになったが捕れた獲物は大かた村人に恵まれた。たまに鹿児島に良き便がある時は実家や知人に送られた。翁の滞在中、新城垂水の旦那方がご機嫌伺いにおいでになった。中には翁に揮毫を望まれて時折書いて下さった。上田家には二幅記念に賜わったので親豊は鹿児島で表装し家宝として大事に保存された。このうち一幅は「幾度幸酸志始堅丈夫玉砕甎一家遺事人知否不為児孫買美田」と書いてあった。親豊は床の間に掛朝夕吟じて翁の人格を慕いご冥福を祈り毎月24日は祭典を行いありし日の翁の面影を偲ばれた。この書も家宝として大事にされたが行方不明となった。明治10年2月4日夕刻翁は突然立ち寄られ「今日は急いで鹿児島に帰る。当分会えないと思う、元気で暮らしてくれと茶も飲まずに立たれたので親豊、マスは翁の姿が見えなくなるまで見送られた。これが翁との今生の別れとなった。