西郷南州翁と新城(1)

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 私学校

 新城に私学校分校がつくられたのは明治八年で場所は現在の新城小学校の所軍事訓練等が行われた。西郷南州翁は新城によく狩りに来られ新城の人はよく接触してその人柄を慕い尊敬していたので私学校には多くの入学者があった。校長は戸長の安田為僖がなっていた。

 新城隊

 明治十年、西南の役が起こると私学徒やその他の者が直ちに従軍した。新城隊は旧新城領の鹿屋、高須等もあわせて兵弐百賦役三百人を以て組織され,戸長安田為僖が隊長、副隊長は中村清操である。新城隊は私学校新城分校当時、南州翁も来校され講話された事もあり、猛訓練をして県下で最強分校と言われた。西南の役でも田原坂攻防線の第一線に向けられ抜刀隊に選抜された者も多く戦死,戦傷者が多数出た。中村兄弟(清操、池田秋登)鶴田兄弟(重則、重武)等戦死している。戦死24名戦傷85名

 西郷南州翁と新城

 旧藩領時代においては村の八割あまりが山野であるが、それらのほとんどが藩有、または領主有となっており、一般人は伐採はもちろん、狩りなどで自由に山林に出入りする事は許されていなかった。また山には木の実、山いも等があり鳥獣にとっては安住の地であり、その繁殖もよかったので多くのものが隠息していたのである。新城は高隈連山を背景とし季候温暖であり明治初年頃はまだ開発がなされていないので、新城の山は絶好の狩り場であった。南州翁が征韓論に敗れて故郷に帰られたのは明治6年10月末で新城に狩りに来られたのは明治7年立春の頃であった。狩り宿は大都の上田親豊方であった。親豊の妻マスは鹿児島市呉服町の岩元善次郎の二女で嘉永5年3月10日生まれ、明治7年当時22歳であった。西郷家と岩元家は古くから付き合いがあり、マスの長兄市之介は戊辰の役にも従軍している。故山に帰った西郷は悠々自適の生活をして狩り等を楽しんでいたがその供は市之介であった。明治7年市之介は西郷を新城に案内し、妹の嫁ぎ先の上田親豊宅に宿をとったのである。この事はすぐ新城内に伝わり前戸長中村清徳m現戸長安田為僖など有志の人達が敬意を表しにやってきた。翁は感謝の意を表して狩りにきたのでよろしく頼むと挨拶された。上田家は日本一の偉人西郷さんがきて下さった非常に名誉とし、一家一族をあげて歓待したのである。中村清徳は西郷の案内役として猪狩りの名人鹿屋駒の介,兎狩りの名人中園休次郎、射撃の名人榎屋与助の3人を選んでお供させた。第1回目の猪狩りは明ヶ谷で行われた。谷にいると10頭ぐらいの集団に出会い、翁は一番大きなのを狙い撃ち、見事に命中、駒の介も1頭仕留めた。翁の仕留めた猪は10貫ぐらい、駒の介は8貫目位であった。1頭は勢子一同に、1頭は上田家に持ち帰り、安田、中村等に贈られた。初回の戦果に翁は聞きしに勝る新城の狩りに大きな興味をもたれその後、幾度か新城を訪れている。明治7年の旧暦9月15日の夜、上田親豊は翁をいかひきに案内した。翁が小船に乗ると舟が深く沈んだので「おいどんが乗ると舟も難儀をしもんど」と大笑いされた。その晩の成果は翁は4匹、親豊は8匹位であったが「海では親豊どんにはかのもはん」と称賛されたそうである。この様に山に海に新城で心から楽しまれたのである。新城滞在中は村内の有志や垂水の町田案山子(垂水島津家最後の筆頭家老)をはじめ多くの人が訪問し翁と語り、教えを受けたそうである。翁の語られる話しの要旨はいつもこれから先の日本についての事だったという。「明治維新の大業は自分達だけの功績ではない。多くの人の生命を投げだした働きと人民の協力によるものである。武士の特権階級の世は終わり、四民平等の世となった。これからはまず教育を振興し女でも百姓でも教育を受け、勉強をしなければならない。勉強をし、努力すれば立身出世も出来る。日本の国を豊にするには人材ん9お育成が第一である。次に土地は制度の改革により自分の所有地となり自由に生産できる。土地の売買も自由にできるので精農は冨み惰農は貧困となり生存競争が起こる。今後は経済力が物云う世の中になる。みんな教育を受け創意を生かして活動しなければならない。人材の育成が私学校の目的である。」と語られたという。このような南州翁の教訓を直接聞いたり教えられたりして翁の人格にふれ感銘を受けた多くの人が西南の役に進んで参加し生命を投げだしたのである。又生還者もその教訓を受けついで軍人に精嚢家に村政、群政、県政に活躍した人が多く出た。のである。