西郷隆盛と垂水(6)

  • 歴史

 捕虜の不謹慎

 三日目には

数珠繋ぎになって磯へまわされて、そこの鋳造場の倉の二階に押し込められた。ここには既に四、五百人の大勢となっていた。ある日の事である。それは磯島津邸で陸海軍大集会が催された時、われわれが例の倉の2階から窓越しにみていると真下の道路を立派なな士官たちが、あるいは馬上で、あるいは徒歩でぞろぞろと通って行くのである。するとこちらから声をあげて「あれが七左じゃ、あれが七二じゃ」と野津兄弟を見つけてどなりたてついには握り飯を投げた者もあった。するとそれにならってこの窓、あの窓から雨が降るように握り飯の礫が投下された。かくて立派な金モールのついた軍服の肩から背中へベタベタと打ちつけられたのである。ああ、何たる乱暴であろう。野津兄弟今は立派な将校である。それの対してこの無礼は許し難い事である。しかも自分達は自由を奪われた囚われの身でありながら、こんな不謹慎な事を致すとは誠に言語道断、必ず重い処罰があるものと思っていたがあにはからんや、そこの窓を密閉され、恰も炎暑の蒸し返されるような苦しみをなめさせられたのみであった。

  釈放される

 一週間目には自宅謹慎という事になって、倉の中から放ちだされた。垂水の人で同じ運命にあった東伝左衛門、川上用八の両氏と祇園州まできてそうめんを一杯づつ食った。自分が金を五十銭もっていたからこの代は払った。この時東氏は女羽織を着ておられ、可笑しな風であったがどうした訳であったか今考えてみて不思議である。町は焼け野原となっているから泊まる家もあるまい。いかがしたものか思案の末、垂水に漢学の先生できておられた篠原先生が頭に浮かんだ。一つ行って相談してみようではないかと評議一決して菓子を買って手みやげとしてもって行った。幸い先生在宅で「これはようこそ参られた」と愛想よく迎えられたのは嬉しかった。然るにここは官軍の宿所になっていて表座敷には士官たちが酒を飲んでいるようであった。それと知った東、川上の両氏はたちまち憂鬱な顔色になられた。暫くすると表座敷から来いと言われたのでスワ、こそと両氏は逡巡して出るのを拒まれた。しかるに自分は「えけいあいむんな」(かまうもんか)と言って出て行った。この時、自分は彼の県庁で分捕った軍医服をきていたのである。それをあとで思い出す度に可笑しくてたまらない。けれどもその時は士官たちの目が特段見咎めもせず快く迎えて盃をさしたり、御馳走を与えたりそして戦争はいかがであったかなどと聞いたり話したりして面白かった。好い加減に引き下がって別室に導かれ、そこで久しぶりに娑婆の夢を結ぶ事になった。他の両氏はいっこうに安眠ができぬ様子であったがとうとう夜の明けぬうちに姿を隠された。自分は一人先生のお宅を辞して横岸木にきて見ると彼の両氏はその他の人びととともに早垂水船に乗り込んでおられた。さきに郷里を出発する時は勇ましかったが肥、豊、日、隅の野に転戦し風雨八カ月の艱難を経て何等報いらるるもの無くむなしく故山を望んで寂しい帰途につくのである。しかし死して帰らぬ者よりはるかに幾十倍の幸福と言わねばなるまい。生きて帰った姿を見る親たちの目には喜びの涙が一杯であった。