西郷隆盛と垂水(5)

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 稗(ひえ)の飯

 なるたけ敵の目に着かぬ所をとて、只ひたすらに山路を急いだ。ある日のことである。自分達の隊は中軍で西郷先生を護衛しながら丁度昼頃一つの山家に着いて、暫時そこに休息した。先生と二、三の幹部だけ座敷に在って、吾々は皆庭に尻を据えていた。どうもこの頃食物が充分でなかったので、一同腹が空いてたまらなかったのである。そこにひとり先生の前のみ一個の大きな鍋が持ってこられた。それを見た一同が浅ましい事には「あれはなんであろう」と初めは私語いていたがいっこうにこちらには渡されぬのでついに声高に「あれはなんであろうか、食い物であろうに、」と言ったのである。庭と座敷ちの距離僅か二間余(1,8M)、聞こえぬはずがあるものか、終始黙々としておられた西郷先生、ツト立ちあがってその鍋を提げてきて、黙って皆の中におろしていかれた。さすがに一同恐縮してただながむるばかりであった。それはむろん米の飯ではないが、といって粟でなし麦でなし一種異様のものであった。後で聞けば稗飯であったそうである。

 敵の士官に強いのが居った

 長駆破竹の勢いとか、猛虎群羊を駆るごとしとか、いう形容はこんな時にあてはまるのであろう。要所要所を固めた官軍を蹴散らしつつ、遂に隅州横川に出た。ここで斬り散らした鎮台兵の死骸を皆焼却した。蒲生に達した自分達は前軍であったが、官軍を駆逐しつつ吉野越えに近くなった時、逃ぐる官軍の中から一個の士官が振返って、サーベルを打ち振りつつ追いすがる者等をバタバタと斬り倒すのであった。それに恐れて近づかぬようになれば又逃げていく。追いつく程になると又振返って、ドッコイドッコイと掛け声をして斬りまくる。ために味方のたおるるもの少なからずあったけれども、天晴れ惜しき勇士ぞ決して鉄砲で撃つなとこちらは制し合ったのであるがやはり心なき奴が遂に打倒してしまった。そしてその手帳を探り出してみたところ、これは鹿児島高麗町の田中某という人であった。どうりで強かったと皆感嘆した。

 逸見殿先鋒を譲らず

 吉野の涼松の茶屋で休憩した。ここで前、中,後の隊の繰り替えをする予定になっていたのを我隊長逸見殿がぜひこのまま前軍で置いてもらいたいと言い出したが隊の者一同もウンそうそう前軍行きたいものだ、と勇ましげに声援して、さて顧みて味方の者どもと顔を見合わせながら小声になって、馬鹿な今更何の功名ぞと嘲って舌を出した。ああ長い間の戦苦に飽き、敗軍又敗軍、漸く末路に近づいて,総ての希望は絶え、為に軍紀弛み隊長の威令も衰えたのであろう。今や一葉落ちて天下の秋を知る季節で何となく心細いようであった。それでも脱走者は一人も無かった。

 疾風の如く殺到す

 西郷先生の許しを受け、引き続き前軍として出発した。吉野の村役場の城戸にて隊を立て直し、今までの携帯品はことごとく捨て、只銃器と食器のみをもつ事にし、以て身軽にならしめた。そして皆刀を抜けとて、いわゆる抜刀隊を作ったのである。八ヶ月以前に出発した懐かしい故山、今眼前に見えてありながら、残念至極にも敵の陣地である。感慨無量、墳恨骨髄に徹し、一同之が奪還を心に誓い、歯を噛み肩を怒らし雄躍して前進し勇壮な軍歌の声にも一層の力がこもっていた。吉野ヶ原から韃靼堂(たつたんどう)に降りて福昌寺門前,内之丸,浄光寺下と馳せ過ぎて高野山の下に出たかと思うとまっしぐらに私学校裏門に突貫した。驚き、あわて、守りを捨てて逃ぐる敵のあとから、味方の打ち振るう白刃きらめいて走り行くのを見るのみで一発だも銃声を聞かずたちどころに奪還占領するを得た。敵は米倉の方(小川町赤倉の方)へ退却したがそこから始めて発砲しつつ応戦するようになった。

 逸見殿撃たる

 官軍が米倉の方からしきりに射撃するけれどもこちらは石塀の陰で笑っている。すると好い気になった若い人達二、三塀の上に登って大手を広げて嘲笑するので、そこの逸見隊長が現われて「おい!馬鹿らしい事をしちゃイカン、そうして撃ち殺されては何もならん。死ぬ時は必ず一人以上の敵を倒さなければ」と言われた時,カッと音がして隊長が後にばったり倒れた。頭から血が流れ出て、みるみる面色蒼くなり、息は絶えてしまった。驚き駆け寄った仁礼某等、叩きおこして口に宝丹を含ませ激叱して気を励まさせ、ようやく蘇生せしめた。するとたちまち愉快極まる陣屋の酒宴、中に益良夫(ますらお)の美少年、とうたい出して隊長自ら気をふるわるるのであった。しかし頭痛がひどいのでもう駄目と思われたか帯剣をはずして「これは先生の物だから返上してくれ」と遺言めいた事をいわれるので、又宝丹を食わせはげました所今度は「先生に会わせてくれ」と言い出されたから皆で以って興に乗せて送った。逸見殿はこれまで12ヶ所の負傷があったとやら、又いつも大野太刀を従者に担がせていられたそうであるが何時どこで捨てられたのか、その従者というのも今はいなかった。

 最後の軍使を見た

 又官軍が城山に登った、という事で高野山の後から駆け上っていってこれを追い払い、なお追撃して山を下り県庁まで行った。そしてそこから金倉に篭っている敵と互いに銃火を交えた。ここで自分は新しい服を分捕って着たが、それは海軍軍医の服であった。一週間ばかりして県庁も火をかけてしまった。そこには官軍の手負いなどがいたはずだが皆焼かれてしまったのでしょう。それからは自分達は二の丸の内に引き上げていた。八月十六日(新九月二十二日)、山野田、河野の両氏が軍使として軍艦へいかれるのを見た。引きまわしを着て、白旗を振りながら出て行かれた。その翌日、河野氏は留められて、山野田氏のみ帰ってきて、今晩限り降伏をせねば明日はいよいよ総攻撃をするぞという返事を齎されたそうである。けれどこの日も遂に暮れて、降伏どころか城を枕に討死の覚悟とみえた。

 遂に捕虜となる

 明くれば八月十八日(新九月二十四日)いよいよ総攻撃が開始された。銃声も次第に激しくなってきた。自分達は敵に近い所にいては心細いから山の味方と一緒になろうと思って二の丸の内から逃げ出して照国神社の西の道から彼の峻坂を登ることであった。この時の戦友は皆酒に酔っていたように記憶する。谷山の人が三人、鹿児島の人が四人、自分を入れて八人であった。やや登っていくと意外、上の方から鎮台兵が鉄砲を撃ちかけてきた。いつの間にに占領していたものかとびっくりした立ち止まったがうまい具合にそこに岩陰があったから、早速皆々そこに隠れた。暫くして出ようと思って顔を出して見るとやはり鎮台兵が筒先向けて構えている。上にはかくのごとして行かれず下へ逃げても後から撃たれそうでむなしくそこのとどまっているのであった。しかしいつまでもこうして居られる訳のものでもない。最早万事休した事を感得した自分は思い切って帯を解き、それを打ち振りながら、降服、降服と呼ばわって走り出た。そしたら鎮台兵が左右から跳びかかってきて、後手に縛ってしまった。他の人々も続いてくるので、同時に来ると撃つぞ、一人一人出てこいと言って一人ずつ縛った。そして上の方に曳かれていった。すなわち頂上のやや平な所にでたが立派な士官たちが椅子に腰かけている。その前で一応取り調べを受けたのである。特に刀を調べて見つつあった一人の士官が上官に向かって「こいつを貰って斬って見たいのですが」と言って指した者は谷山の人で肥えて頗る見事な体格であった。生命惜しさにせっかく俘虜になったものをやはりここで斬られるのかと情無さを嘆ずる色が皆の顔に浮かんだ。しかるにさすがは上官である「今日は沢山斬らねばならぬ日じゃ、こんな俘虜など斬るのはよしなさい」といったので一同ほっとした事である。他にも捕虜があったがそれ等と共に草牟田の方へ曳いていかれ更に武や騎射場に転送され、午後四時頃上荒田に着いてそこで食事を許された。しかし何も食いたくなかった。ここには早数十人の捕虜が来ていた。そして吾々と同時に降伏した樺山資治という人に姓名を認めてもらって差し出した。ここの官軍は大阪鎮台であった。