西郷隆盛と垂水(4)

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 武田の苦戦 立山氏の談に戻る

 湯の村と言う所に一週間ばかりいて、それから日州に越えて冨高新町に出て、中一日居て細島へ行き、更に二、三日して豊後の竹田に向かった。竹田に着くや否や、いきなり敵の台場に突撃を試みた。。ところが意外に猛烈な射撃を受け、たちまち味方が将棋倒しになった。これでは一気に乗っ取る事不可能とあって、此方も台場を築造してその陰に止まる事になった。その台場のお互いの距離が甚だ接近したもので、両方から握り飯を投げ合った位である。(ここに堀之内吉蔵氏の談を挿入する)敵、味方の台場が頗る接近していたので銃砲、声の鎮まった夜等話し声がよく聞こえた。そこで悪口を言って罵りあったり、あるいは石を投げ合ったりしたのであるが後には慣れてきて握り飯を投げてやったりなどして戯れた。又立山氏の談に戻る。朝一旦台場に這入ったきり、夕方まで決して出られぬ、それに初夏の暑い日が照りつけるので遂にこらえきれずして逃げ出してしまった。そして古城という所へ逃げ行ったりトンネルに逃げ込んだり実に右往左往の乱走である。自分も小麦畑の中を走っていて打ち倒れた。起きようとするけれども立つ事ができぬ、これは必ず足の辺をやられているに違いないと悲観におちながら手で触ってみるとそれは麦に絡まっているのであって怪我ではなかった。それとわかると安心して元気を奮い起こし又走り出した。この騒ぎは」吾等ばかりではなく同時に町の人びとも狼狽して逃げ出したがそれが又一段と輪をかけて大騒ぎとなり、真にもって気の毒な事であった。一人の老婆が幼児の手を引いて逃げる、その惨めな姿を傍にみて自分は己を忘れて憐憫の情にうたれ願わくば、この人達にけがなかれしと心中に念じつつ走る事であった。トンネルに逃げ込んだ人達は畳をもってその入り口をふさいで弾丸よけにしていたのであるがついにそこも捨てて古城の方へ逃げてきた。この日我が垂水の坂田源次郎も本田荘八も戦死した。それから不思議なものである。というのは清水の人で足を撃たれて歩けぬのをその戦友二人で左右から抱えて引き上げてきおったが又流れ丸が来てその負傷者の腕に当たった。そして抱えている両人にはかすりもしなかったのである。さてこの戦いは非常な大敗で全隊で五,六十人程しか残らぬという惨憺たるものであった。この時、鹿児島の米倉人足等を駆りだし、例の相撲取りの岩千代などその他百人ばかりの新手をもって補充された。すなわち前の赤松峠のあの連中であろう。

 臼杵(うすき)に出ず

 一時は古城にも遁入していたものの、とてもこんなもの凄い所に長居が出来るものでもなく、再び逃げ出してただひたすら東を望んで走った。遂に臼杵の海辺に出た。ここでは敵兵不意を喰らって狼狽してそこにある城の上に逃げた。それを追撃して更に海の方へ追い出したのは面白かった。敵は海中に飛び込んで沖に碇泊の軍艦目指して泳ぐ、それをボートに救い上げる光景もも又一興であった。軍艦から盛んに砲撃したけれども、別段被害も無かったから遂に尻を落ちつけて1週間ばかり居た。

 永井村「に立篭もる

 大勢日に非なりで、またまた退却せねばならなかった。佐伯まで十八里(72k)の道を一睡もせずに歩くつらさ、田圃道で田の中に眠りこけて隊から遅れる者もあった。翌日は又重岡まで行き、そこにも長く滞在は出来ず、遂に日州永井村まで退却して全軍ここに立篭る事になった。かかる時の将帥(しゅうすい)たちの優慮をよそに吾々兵卒の気楽さはただ朝夕の食事の事のみ考えていた。どこの町であったか酒をたたえた四斗樽を店先にすえ柄杓まで添えてあったので酒好きの人はもちろん、みなみな喜んで飲んだ。又あるところでは黒米(玄米)を食わされた。それは冷遇の意味では無く精米が間に合わなかったのである。又重岡かどこかではお寺に宿がとってあったが若い者どもがそこの木魚を叩いてみたり、あるいは鐘を鳴らしたりして読経の真似をしたりまるで命がけの戦争にきている人とは思えぬほど無邪気なのんきさであった。永井村に立篭った頃は丁度長雨の季節であった。その幾日目であったか、いよいよ切り破りという事になった。

 可愛岳突破

 可愛岳は最初当方のものであったけれども、捨てておいたので熊本鎮台が今は占領して、本営を構えている事となった。一体この山は一面がゆるい勾配で他の一面が急に険しい断崖となり、すこぶる要害な場所である。されば敵はこの要害をたのんで油断しておろうから、そこを突破しようというのである。それは夜であった。逸見殿が先頭に立ってその断崖の方から粛々と進むのであった。そして枝折り(しおり)として暗夜にも目につきやすい白紙の札(えぼ)を所々に結び付けてある。それを頼りに一同声を出さないようによじ登る。するとおりからの雨空で咫尺を弁ぜぬ(ほんの少しの先も見えぬ)暗夜の事であり、敵陣近く忍びよった事でもあり、いつしか疑心暗鬼を生じ、前方にある一団の人影を敵かと思って逃げ出し、崖を踏み外して落ちる者もあった。自分は幸いそんな目にもあわず漸く頂上にたどり着いた。(吉井嘉徳殿も落ちた人数のうちで気絶していて目が覚めてみると朝八時頃でがけの下に倒れているのに気付いた。と後に同人が語った。) 頂上には早敵影を見ず、山と積める兵糧の前で隊長連の豪快な笑顔に接したのみであった。牛肉、魚肉、パン、餅、外套その他枚挙に遑あらず(まいきょにいとまあれず)それを隊長が「みんなこれを背負うがなる量かるえ」(かるがないひこかるえ)と言われたので自分は餅とその他の食糧と足袋を沢山取った。そしてこれから山中を南に向かって歩くのであった。途中で彼の分捕り品の御馳走を食べるのに人の隠していないと奪い取られる恐れがあった。それほど人心が浅ましくなっていた。翌日やはり山中であったがこの時初めて西郷先生を見た。キチ縞の単衣を着て裸足で歩いていられた。狩りで鍛えられた故か苦しそうにも見えず又何等心配そうな顔色も見えなかった。(永井村に在りし薩軍数数千,内四、五百人のみが脱出。八月十七日午後十時頃より十二時頃までの間に河野圭一郎、逸見十郎太は前軍、桐野利秋、村田新八は翁の身辺。中島健彦、貴島清は後衛)

 三田井口に突入

 三田井口は官軍が固めていたけれども、何かは恐れんまっしぐらに突入した。驚き狼狽する敵を瞬く間に斬り散らしたそうで、自分達が到着した時は夥しい鎮台兵の死骸が庭にも座敷にも転がっていた。又一人の敵兵を床下から引きずり出して斬るところもあった。ここでは沢山の米俵を分捕ったけれども仕様がないから悉く土地の人に分配された。薩州さんは偉えなどと追従(ついしょう)を言われた。現金七千八百二十円、米二千五百包、その他戦利品多し。ここで隊を前、中、後の三隊に分け中軍で西郷先生を護衛する事になった。西郷先生はここから駕籠に乗られた。