西郷隆盛と垂水(2)

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   隊編成

 その翌日2月13日御殿の下の旧練兵場で隊の編成があった。それから毎日交替で私学校に番兵に出る事になった。自分が属する隊は五番大隊で清水、頴娃、川辺、谷山、出水、種子島、鹿児島及び垂水の人達混成されたものであった。隊長は平野壮介といって年三十二才,肥えた大柄な人で穏やかな善い方であった。中隊二百五十人を更に左右二小隊に分けられた。そして垂水の人で同隊になった者は伊籐嘉衛門、安田次郎兵衛、坂田源次郎、前原五郎右衛門、島児鞍助、高野市之進、篠原市助、土屋宗之進、本田荘八及び自分とも十人であった。

  いよいよ繰出す

 二月十一日から雪が降り出し十五日出発の際まで続いた。積もった雪の深さ一尺(約30センチ)余、あるいは二、三尺に及んだ所があるという。実に未曽有の大雪でそのキラキラ光る中を愈々出軍となったのである。

 桑島真氏の談  雪におおわれた広い練兵場も真っ黒く軍隊で覆われた。すると閲兵とでもいう訳か、多くの将軍達が隊の左端から歩いて来られる。それをみてあの人が西郷殿だろう、否、あちらの大きな人だろうなどと語りあい、やかましくしている時、突然一人の隊長が励声一番「誰かこのうちに下駄ばきのものがあるようだ、痕がついている。誰だ前に出ろ!!」と言うと一人の青年が恐る恐る出た。すると眦の避けた隊長が装束は草鞋脚絆と言い渡してあるはずそれになぜ下駄ばきできたか、軍令に背くものは斬るといって腰をひねり、つか頭に手をかけたところに他の隊長がその肘を抑えて「先ず待たれよ西郷先生が今度までは許しておけと申された」と言って止めたのでホッとした。出発に際し弾薬各百発ずつ、少年は五十発ずつ交付され、第一番大隊、第ニ番大隊の内を左右に分かち右翼は大口方面、左翼は伊集院方面へと繰り出され、整々粛々として進発した。翌十六日には第三番大隊、第四番大隊が前のごとく出発し、わが第五番大隊は最後の日即ち十七日に発足した。水上坂(ミッカン)を登る時、だれやらが積雪の中に陥没した。それほど大雪であったのである。その日は西市来まで行って泊まり、翌十八日は阿久根泊まり、十九日は出水の麓であった。出水の宿所は何という人の家であったか、東方に面した高い石垣の上、見上げる所に門があって、すこぶる広大な構えの家であった。そして町の人びとだと言って、多数の加勢人があって、大変な御馳走をされた。この家の人も従軍されていられるとの事だった。さてここまで来るのに毎日草鞋の十二、三足ずつ踏み破ったのである。

 宮崎県高城の堀之内吉蔵氏の談  自分は当時十六歳で身体も小柄な方ゆえ、下人を従えていたところ、下人の供は許さぬとて鹿児島から帰されたので、それからは何もかも自分で持たねばならなくなり、先ず鉄砲が重い、腰の刀も重い、、弾薬は五十発であったけれどそれが余計に重い。そこで出水の宿所でその半分を床下に捨てて行った。

    船の壮観

  翌二十日朝立ちで一里ばかり歩いて米之津に出た。見ると海岸一帯に夥しい船である。第何番何々隊と言う旗が翩翻(へんぽん)として、いずれもその船床に翻って婆娑と風にはためく音が海を圧して勇ましい。その数何百であったものか、遠く天草辺りからも雇ってきたそうである。 兵隊それぞれ乗り込み終わると直ちに出帆して夕方水俣に着いた。その晩風向きが悪いというので、ここからは陸行すべしと、一胆海岸から一里奥の方にある町までいったら又船で行くという事になって、引き返してきた船に乗った。風は寧ろ追手で翌二十一日夜が明けて見ると幾百船の白帆が一斉に同じ方向へ群走する光景というものは実に何とも言えぬ壮観であった。途中戯れに発砲してみたり、なんと今日を限りの世の中であった。その夕方松橋に着いたが今思えば大変な早さである多分恐ろしい強い順風であったらしい。

 熊本城に懸る

 その晩十時頃、自分は番兵にでていたが、今から直ぐ出発という事でそのままあるいていった。途中宇土でちょっと休んで翌二十二日払暁(ふつぎょう)川尻に着いた。ここで今まで携帯していた荷物の内、戦いに不要な物や外套などを人家に頼んで置いて、それから駆け足でまっしぐらと熊本城へ馳せ向かった。熊本は三日前から市中の家を鎮台が焼き払いつつあったそうで今はその煙で只濛々漠々と(ひろくたちこんで)して前方は城楼どころか何もみゆるものはなかったが丁度安政橋の上に来かかった時、大砲をうちかけられた。その音で初めて彼の方向に城があるのだという見当がついた。それをこちらは小銃で応戦するのであった。いよいよ本舞台となった訳である。それからというもの、ただ殷々轟々(いんいんごうごう)空中が鳴りわたっていた。そして負傷者がおいおい出てくるのであった。そこでこれはどうしても前方に進んで彼の城壁の真下に行ってその掩蓋(えんがい)の下に安全を図るのが第一との事で、皆無二無三に突進していった。しかるに行けばいくほど血塗れになって、後退する負傷者や、道に横たわる吾軍の死骸が次々と多くなる事に驚いた。そこでちょっとためらったけれどもやはり先導に従って進み漸く例の掩蓋下に達した。なるほどこれなら軒下に雨をしのぐのと同じである。城兵もまさか自家の軒下に敵が避難してこようとは、思い設けぬことであったろう。すべてこれらのことは熊本隊のみちびきによるものであった。かくて午後三時頃、夫卒が飯を竹籠に入れて担ってきた。それがまちに待った昼食であった。夫卒が何番隊の方々は何処にかと言い終わらぬうちに「何番もかん番もあるものか早くこなたへよこせと奪い取ってみると、その飯というのはまるで粟ばかりの物であった。それでも昨夜来喰わずに歩いたので、極度に空腹を覚えていたからただもう貪り食ってしまったのである。暫くたってようやく味方の大砲が到着したらしく、初めて味方の方から発砲する音がしだした。一同躍りあがって、嬉しがった。日暮れ前に戦いがやんで引き上げとなった。味方の方は只散々に崩れていたが、安政橋に来た時漸くまとまった。そしてその夜はそこの河原で露宿したのである。

 小倉鎮台、植木、田原坂、木葉町、南の関

 翌二十三日未明、小倉鎮台がきたというので、それに向かって繰り出されたので、段々進んでいくと、先発はすでに直木せ衝突したと言って途中次々と死傷者を運んでくるのに出あった。向坂という所まで来ると今度は敵の倒れているのが多かった。ある一か所では十八人も遺棄されているのを見た。漸く昼前の十一時頃植木に着いたがもう官軍の影も無くそこでやすんでいると午後三時頃になってまた来たというので直ちに出発し、今度は田原坂で衝突したがたやすく撃退し、追撃しつつ木葉町に入った時は夕方であった。ここでは銃器弾薬の分捕り夥しく、なお追撃を続けて南の関手前までいき、そこから引き返し植木にきて休息した。翌二十四日は雨の降る日で戦も無かったから分捕り品の分配等があった。自分は戦友安田次郎兵衛殿が昨日の戦で腕に負傷されたのでその看護を命ぜられた。

 鍋田河原の激戦蜂須賀某の剛気

 二十五日は山鹿にいって翌朝鍋田河原という所から大進撃が開始された。この日の合戦はすこぶる烈しく、我が半隊長等も討死された。またまた大勝利であって敵の遺棄死体は南の関の手前腹切坂まで八十六個を数えた。その日は又山鹿に引き上げたが、そのまま隊を組んでこいとの本営の命であるというので今日の戦いは見事な大勝であるからこれは必ず御馳走でもしておおいにねぎらわれるであろうと思って居たところ、豈(あに)図らんやで平野壮介隊長曰く、「斬りこめと命ぜられ直ぐ斬りこまんのはイカン、他の隊はどうあろうとも吾、第七中隊だけは真先に進んで斬りこまにゃイカン、今度若し進まぬ者がある時は後ろから斬り捨つるぞ、特に田舎ん衆はヤッセン。ともってのほかの事である。面喰って一同恐縮するかと思うとこれまた意外、「田舎ん衆との一言はけしからぬ、と鋭き憤怒の声を発し詰め寄る者があった。そして斬りこめの号令があってもしり込みして進まないのはむしろ御城下の人達である。それに何ぞや田舎ん衆等とは言語同断侮蔑極まる。よし然様(しかよう)仰せらるなら、今後必ず御城下ん衆が真っ先に斬り込まるるか改めて拝見しましょう。そこで若し進まぬ方があったら、この田舎もんの吾輩が斬り捨つるぞと大いに威嚇した。その面上には小鬢の負傷で血塗れになったか、あるいは敵を切った時の返り血を浴びたのかまるで赤鬼のようなもの凄い形相である。されがさすがの御城下兵児等も辟易(へきえき)したとみえて誰も一言酬ゆるものがなかった。われわれ田舎者の方では痛快この上もない事であった。さてこの人は頴娃蜂須賀某という豪傑であった。この人は初め押伍であったがのちには小隊長になったようである。因みに我が第七中隊は遊撃隊であったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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