新城西郷100年記念誌「西郷どんと新城」

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 「発刊によせて」 昭和52年7月31日 委員長 八木栄一

 西郷南州先生の百年祭にあたり私達の郷土(新城)は先生と決して無縁ではなかったと思います。明治10年の西南戦争には新城隊(200余名)が編成され西郷軍として出陣、うち24名の若者が尊い人命を捧たと伝えられています。特に西郷南州先生は明治10年2月の出陣直前まで、新城の山野で幾度となく狩りなどをなされその折々の秘話などが数多く語り伝えられて今更ながら西郷南州と新城は大きな因縁で結ばれていたと考えられます。

 明治維新の大業を果たされた偉大なる人西郷南州先生の没後100年の記念すべき年を迎え、長い歴史の中で、この様な機会に巡り合わせた新城の私たちは先生の偉業と先生と生死をともにされた郷土勇士の先輩方のご冥福を祈り御恩報謝の誠をささげるべきではないのか、小さいながらでもよい、新城なりの記念事業を実現してほしいと提言してくださった人たちも沢山ありました。この様な事情など配慮しまして「西郷100年祭新城記念事業実行委員会」を組織してその一つとして「西郷どんと新城」と云う名題の記念誌を刊行する事になりました。

 幸いな事に私達新城には郷土史家の永田時吉氏が健在で熱心に郷土史の研究を続けられているのでお願いする事となった。

 狩場としての新城

 新城は高隈連邦を背景として南面季候温暖、村の八割余が山野であるが山野には古来樫、椎、栗、ほさ、まて等の大木が繁茂してたくさんの木実がなった。これらの木実は猪の好物であるが栄養価の点でも貴重な澱粉、蛋白,脂肪、ビタミンなどを豊富に含有し秋の末落果して春の芽を出すまでは自然保存食として猪にとっては誠にありがたい自然の恵みである。新城の山々谷々にはどこでも山芋が自生してよく育って大変良質な物が生産される。山芋はまた猪の大好物で猪はあの鋭い鼻はしでよく芋掘りを行う。猪の鼻はその為長い年月の間に成長発達したものとおもわれる。新城に猪が多かったのは、猪の好物の木実や山芋が豊富であったからであった。明治の末期から林野改善事業が進むにつれ、樹木も松、杉,ヒノキが中心となり樫、椎、マテバシィ、栗などの雑木林は切り払われ猪の食糧は低調となるにつれ新城の猪の数も漸減の一途を辿り今日は極めて少数が残存するありさまである。猪の肉が万獣の肉中最高味をもつといわれるわけは栄養価の高い木実と山芋を食糧とするためと言われる。特に「霜月、師走、正月の猪の味は最高で郷里では猪肉を正月料理に使用する習慣がある。正月料理の猪は肉の毛を残したものを御吸い物に入れるならわしがあるがこれは私どもの遠い祖先が原始時代の食物の名残を留めたものと言われる。したがって村の猪は原始時代からいたわけで原始時代人にとっては極めて貴重な食料であった。南州翁は初めて新城の明ケ谷で猪狩りをされたがその時10頭ぐらいの猪の集団に出会われ、聞きしに勝る新城の猪の多い事に驚かれ猪狩りをするなら新城の山だと称賛されていたという。明ケ谷一帯は近年まで椎の大木やほさまての自然大木林で木実が多かった。

 藩政時代まさかり根木原一帯は新城家の狩場として一般の山入りは禁止されていた。この禁猟地区には兎や鳥類が多かった。又柊野、北野、桜町、高牧、郷之原一帯周囲20キロの広域に新城家経営の高牧牧場があって、常時数百頭の馬が放牧され一般の出入りは禁止されていたので牧場内は兎や鳥類の天国で繁殖旺盛成育極めて良好なものであった。

明治2年新城島津家は私領奉還され牧場も廃止、同時にまさかりの禁猟区も開放された。以来この辺は狩り場として狩人の楽天地となった。南州翁もこの辺での狩りをおおいに楽しまれたが兎や鳥類特にキジの多い事にも驚いておられたという。そのよき狩り場も明治5年土地制度改正によって私有化せれて、後は年々鳥獣漸減の法則を辿った。南州翁は大きな体で新城の山野をくまなく駆け巡り狩猟を楽しまれたが山野での行動力は驚く程元気で敏捷であった。それは狩りを楽しむと同時に恒に心身を鍛練していつでも陸軍大将として行動力を養う深い意味があった。で云うトレーニングであったと考えられる。新城の山野は至るところ南州翁狩猟の足跡がのこり村人は今でも西郷どんの敬称で尊敬申し上げている。