西郷南州翁と新城(2)

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 翁の滞在中の生活は庶民的で木綿の絣を愛用された。上田宅ではお茶好きの翁の為に鹿屋郷之原の良茶を手に入れ米は木場の田の良質米を魚介類は浜どりの新鮮な物をと心を配ってもてなしたと言う。食事は家族同様なものでよいといわれたが味噌汁が好きで鯛のひぼかしのダシで手ずくりの味噌に青物を入れるとおいしいと喜ばれた。又そばが好きで火ぼかしの鯛のだし汁にゴマや山椒の実、小ミカンの皮をまぜ、せんもとを刻みひねものとして差し上げると翁は「とてもおいしか、ま、気張っ食おかい」と数杯召しあがったといわれる。明治10年2月4日翁は根占から鹿児島に帰る途中、ちょっと立ち寄られ「今日は急いで鹿児島に帰るが、当分は会えないと思う。元気で暮らしてくれ。」と言われ茶も飲まずに立たれた。上田夫婦は翁の姿が見えなくなるまで見送っていたがこれが翁との最後の別れになったのである。

 上記の事は上田親豊の孫の武博が祖母のマスから直接聞いた事を昭和2年にまとめたものである。なお同家には南州の書や使用された道具類が大切に保管されていたが昭和20年の空襲により焼失したのは惜しい事である。

 大津シモ上田親豊の二女として慶応2年生まれで当時10歳であったが次のように回想している。「西郷さんは犬を数匹連れて絣の着物に兵児帯を締め体と目が普通の人より大きく堂々たる体格のお方であった。母は西郷さんは日本一の偉い方だから身だしなみも整え家の内外も綺麗にせよと言われた。時々食事の時は御給仕をしたりした。鹿児島からお出でのおりは何時も珍しい物をお土産に持ってこられた。それが何よりうれしかった。ある時私に何が一番好きかと聞かれたので私は三角菓子が好きだと申し上げると急いで買って下さった。その頃、村では三角菓子が何より最上等の菓子であった。近所の子供達にも優しかった。ある時翁は私に今後の日本は女子の教育が重視されてすべての女子が学校に行く事になる。それで読、書、算をお父様に習えとおっしゃった。当時女子の教育は無用の長物と考えられていたのである。本当にそのようになった西南の役には私の一族は老いも若きも従軍した。城山で翁が死なれた時は数日ろくに飯も食わず泣いて供養した。『シモちゃんシモちゃん』と可愛がって下さった翁の姿が目の前にうかんで涙が出てしようが無かった。

 諏訪の川畑長次郎は病身であったが草鞋づくりの名人で南州翁の狩りに行かれる時の草鞋は長次郎の作った物を愛用された。そして代金は私は足が大きいからといって2足分支払われた。長次郎は半分でよいと返金すると「おはんの作った草鞋はまこて履き心地がよかで2足分の値打ちがござんさ、取っておっきゃい」と2足分を支払われた。長次郎は私が病身であるのをあわれんでくださる御好意であるといつも感謝していたと言う。鹿児島に帰る際は何時も5足ぐらいもって帰られた。(川畑時光談)

 南州翁が鹿児島から来られる時は舟便であったり垂水から陸路で来られたりしたが帰りは何時も舟便であった。その際は新城の大型漁船を綺麗に洗って使用した。舟は四挺櫓(ちょうろ)で舟夫(かこ)は5人が普通であった。翁は舟おもてにじっとお座りになって身動きもせず物も言わずじっとしておられた。父辰袈裟は20歳ぐらいでいつも舟夫となってお供した。祖父辰次郎は日本一偉い方だから服装もさっぱりとし、言語動作も正して無事任務を果たせと注意した。船の所要時間は天候と風向き次第で5時間から8時間ぐらいを要した。船が鹿児島に着くと「おやっとさあ」と礼を言われて上陸された。南州翁は体が大きく眼光閃き堂々たる威厳を感じたが一面大変親しみのある感じがした。西南の役は父辰袈裟、伯父盛助の兄弟が従軍し田原坂の激戦で負傷し八代付近で落伍したが農家にたどり着きそこで1ヶ月位静養し回復したお礼の為に農業の手伝いをして10月頃帰りついた。(肥後辰之助談)

 明治8年、中村清徳、安田為僖、海江田静哉等新城の有志が南州翁の歓迎会を開いた時、翁が私学校の本義について話された概要。

 日本は太古より天皇を中心とした君主国である。戊辰の戦争は幕府を倒して正しい日本を建設した。統幕はわれわれ薩藩が中心となりこれを成し遂げたがわれわれは更に一歩前進して立派な日本を作り上げなくてはんならない。それには忠君愛国の精神を基本として政治、教育など万般の施策を進めるべきで村の行政も教育も産業もこの線に沿うて発展し、特に人材を育成し登用すべきである。韓国問題に就いては勅許まで得たが岩倉、大久保の反対によって私の意見はもちいられなかった。しかしこの問題は今のうちに解決しておかないと大変な事になる。韓国の背後には清国とロシアの東方進行策があり、日本の安全が脅かされている。今の政府のやり方では駄目で日本国民がしっかりしなければならない。学校は善士を育てる所で一郷一国の善士のみならず天下の善士を育成する所である。戊辰の役に名を正し、義を踏み、血戦奮闘して斃れし者は天下の善士であった。故に忠を感じ、これを規範として一郷の子弟を鼓舞するのは学校の職分であると同時に斃れた善士の志を生かす道である。われわれは生きながらえて多大な賞典禄を賜ったが戦死者の忠勇義烈に感激して賞典禄を以て学校を設立した。世の人びとは私学校と言う。新城でもわれわれの考えに同調して私学校分校を建てて下さったが私学校の精神は人材を教育して善士を育成するにある事を第一義として発展を願いたい。(桑波田静哉)

( 新城永田時吉委員の提供資料による)