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[2015-07-10]垂水の諸家略系図 肝付氏

 肝付姓はもともと大隅高山町の豪族「伴姓」で大伴旅人の子孫と言われている。大隅と大伴旅人の関係は720年に大隅の隼人が大規模な反乱を起こした時、その鎮圧軍の将軍として派遺されたのが大伴旅人でした。旅人から数えて9代目の伴兼行が弁財使となって薩摩に下向したとされそれから4代目の兼俊が日向の国島津荘の荘官として肝付群高山郷に移住し土着しそれから1500年後半まで600年支配しました。

 垂水に3家の肝付氏の系図があります。そして現在も肝付姓を名乗る家があります。なぜ垂水に肝付姓があるかと言うと垂水島津家初代忠将と肝付家16代兼続の奥方阿南、本家太守貴久が姉弟であった事です。1561年肝付氏によって垂水島津家初代忠将は福山廻で討死します。(義理兄の家来に殺される)この戦いを機に13年に及ぶ島津家対肝付、根占、伊地知氏の三州統一が始まります。1574年牛根の入船城の戦いで肝付氏は敗戦し,兼続は志布志に隠居、嫡男良兼が高山をまもりましたが1566年父子とも殺されます。その後阿南の子兼道が継ましたが関ヶ原の戦いで戦死します。

 12代兼忠の3男兼光の子孫は島津氏寄りの道をとり加治木肝付氏、後に喜入肝付氏となり江戸時代まで島津家の家臣小松家の婿(刀帯)となり幕末島津家家老となります。ドラレモン(すねお役)声優肝付兼太は喜入肝付家の流れだそうです。                                        垂水肝付家、 1軒目は肝付兼固を初代とする家系で喜入肝付氏の二男家です。

 肝付没落後天正の頃兄弟同時に以久公に仕え知行50石賜うとある

2軒目兼貞を初代とする家系で16代兼続ー兼道(阿南の子)-の二男家で垂水島津家に仕えている。

3軒目1軒目と兄弟で以久公に仕える

子孫に肝付素方という俳人がいる。(本名了介1895~1982)句碑が垂水文化会館にある。

『島津勢我が祖をたおして野にあそぶ』の句もある